
黄ばんだ染みのある広告のチラシを亡き母は終生、大事に小箱に入れていた。裏面には「検視証明書」とあり、「右の者、敵機来襲により1945(昭和20)年3月17日午前4時ごろ、神戸市兵庫区の運河で死亡し、必要な検視が終了した」との内容が17歳の息子の名前とともに手書きされていた。母はどういう思いでとっておいたのか。戦後80年の夏、娘は誓った。兄が忘れられないように次の世代に伝えていくと。
学業優秀で神戸一中へ
真夏の日差しが照りつける神戸市兵庫区の運河には小型船が並んでいた。「兄はあんな船に避難したのかな」。東京から慰霊の地を訪れた樫野由美子さん(86)はつぶやいた。
2007年、99歳で亡くなった母親の山崎寿恵さんの遺品整理をしている時にバッグに入った小箱から戦時中を回顧したノートとともに、当時の養老保険を宣伝するチラシを見つけた。
縦約17センチ、横約24センチ。裏面には「検視証明書」「山崎敏治 年齢拾七年」と手書きされていた。11歳年上で一緒に遊んだ記憶もない兄の名前だ。死亡と記され、末尾は「昭和二十年四月二日 兵庫縣神戸水上警察署長」と実際の印鑑は押されていない「印」の字が書かれていた。

樫野さんらの家族は、神戸市で保険代理店を営んでいた父が44年に病死した後、両親の実家がある徳島県に転居していた。ただ、学業優秀だった敏治さんは教師から薦められ、同市兵庫区の親類宅に下宿し、神戸一中(現・兵庫県立神戸高校)に通っていた。
樫野さんは敏治さんは空襲で死んだとは聞かされたが、詳しい話は知らなかった。だが、見つかった寿恵さんのノートには空襲後、敏治さんの遺体と対面した様子が書かれていた。
敏治さんは空襲時、近くの運河に停泊している船に避難したが、行方不明になったという。寿恵さんが徳島から捜しに出てきた直後、敏治さんが遺体で見つかった。「私を待っていたように口から血を吐いた。一中の生徒たちの親切で骨にしていただき、戦争中で夜も暗い中(徳島へ)連れて帰る」と寿恵さんは記していた。
県警幹部「創作とは思えぬ」
「検視証明書」について寿恵さんは何も書き残していなかった。「兵庫県警察史」によると、当時は「検視済証明」があったが名称が微妙に違う。ただ、チラシは、樫野さんの父が神戸で営んでいた保険代理店のもので、表の余白には「モグサ、キャベツ」などの文字もあった。物資が不足した時代を過ごしたからか、寿恵さんは晩年もチラシの余白や裏をメモ書きに使っていた。
樫野さんは「母が火葬するために遺体発見時に立ち会った警察官に手持ちのチラシにとっさに書いてもらったのでは。空襲の非常時なので、そんなこともありえたはずだ」と推測する。

一方、県警幹部に見せると「こんなものがあったのか」と驚いた様子だった。「警察が発行した書類かどうかはわからないが、体裁は整っており、創作とは思えない。ご家族が何らかの警察書類を書き写して控えとしたのではないか」と話す。
チラシ発見後、敏治さんのことがずっと心の中にあった寿恵さんの思いに応えようと、樫野さんは神戸市役所に「兄が亡くなった場所を見に行きたい」と相談すると、空襲犠牲者の情報収集をしている市民団体「神戸空襲を記録する会」を紹介してくれた。運河を訪ねるとともに、同会に届け出て、敏治さんは15年、空襲犠牲者として大倉山公園(神戸市中央区)の慰霊碑に刻まれた。
7月末、樫野さんは敏治さんが亡くなった神戸市兵庫区の運河を訪れ、こう話した。「私もいつまで元気かわからないけど、母がチラシやノートに兄の死を残してくれたように、子や孫に兄のことを伝えていきたい」
検視なく火葬される犠牲者も

「神戸空襲を記録する会」によると、神戸市では45年の1年間で空襲が120回以上続き、8000人以上の犠牲者が出たとされる。特に被害が大きかったとされる一つが3月17日の空襲だった。
兵庫県警察史によると、空襲犠牲者は行政検視の対象で、管轄の警察署が死因の特定と身元確認を行って検視調書を作成し、遺族が持参した死亡届書類に「検視済証明」を記載するのが原則だった。だが、神戸空襲では、検視が追いつかず身元不明のまま火葬される犠牲者もいた。
71年に結成された記録する会が名簿収集に取り組んでいるが、現在、氏名が判明し、慰霊碑に刻まれている犠牲者名は2267人だ。【山本真也、柴山雄太】
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