日中戦争と太平洋戦争では日本の軍人と軍属計約230万人、民間人約80万人が命を落とした。大分県の男性は10代の時、弾が飛び交う前線に立たされ、仲間が次々と無残に殺されるのを見た。終戦から15日で80年。体に残る米軍の手投げ弾の破片が今もうずく中、元兵士があの日を語った。
目の前で息絶えた友人、渡された小指
「54人のうち生き残ったのは4人だけじゃ」。8月上旬、大分県国東市の自宅で山下和明さん(97)は手書きの名簿を広げた。第二次世界大戦末期、日米の激しい地上戦となった沖縄に送られた佐世保海兵団の同期54人。生きて帰った4人のうち3人は鬼籍に入り、今も健在なのは山下さんだけになった。
1944年12月、長崎県の佐世保から鹿児島を経由して沖縄本島に船で送られた。当時17歳。海軍航空隊の小禄派遣隊に配属されたが、使える戦闘機は数機しかなかった。
45年4月に米軍が沖縄本島へ上陸した。その頃、首里(現・那覇市)近くの陸軍の陣地に行くよう命じられた。十分な火器もなく、倉庫から戦闘機用の機銃を持ち出したが、弾を発射するとすぐに銃身が熱くなり使い物にならなかった。
やがて米軍は約200メートル先に迫り、「キューン、キューン」という音を立てて銃弾が飛んできた。海と空からも激しい砲爆撃が加えられ、仲間たちは体の原形をとどめることなく次々と死んでいった。
同郷の友人も背中に砲弾を受け、目の前で息絶えた。死の直前、自らかみちぎった左手の小指の先を渡された。「故郷に持ち帰ってくれ」ということだと思い、軍服のポケットにしまった。
敗戦も「当然の帰結」
山下さんも足首を撃たれ、戦うのを諦めた。爆弾の破裂音で鼓膜が破れたのか、耳も遠くなった。軍刀をつえ代わりにして、無数の遺体を乗り越え、仲間の一人とともに、はうようにして南へ逃げた。
たどり着いた本島南部の海岸では追い詰められて崖から身を投げる人も見た。身を隠したガマ(自然壕(ごう))では米軍が投げ入れた手投げ弾が爆発し、尻やひじなどに破片が刺さった。
45年8月15日。山下さんは米軍の収容所にいた。上着には、捕虜を意味する「PW」のアルファベット文字が大きく書かれた。「日本は負けた」。そう聞かされても、何も感じなかった。当然の帰結だと思った。
沖縄に派遣される前、佐世保海軍工廠(こうしょう)で特攻艇「震洋」などの製造に携わった。兵士の死を前提とした攻撃をせざるを得ない日本軍の状況に「これは悪いところに来た」と感じた。実際、沖縄では兵力も兵器の質や量も、米軍との間に圧倒的な差があった。
体に残る手投げ弾の破片、今も痛み
故郷の大分に戻ったのは終戦から約1年2カ月後。真っ先に、小指を託された友人の実家を訪れた。友人の父親は既に息子の死を知っており、「形見」の帰還に感謝した。
戦後は農家を継いだが、けがの後遺症で力仕事は難しく、諦めてトラックの運転手になった。尻は手投げ弾の破片が残って痛み、今も柔らかい椅子にしか座れない。左足に残っていた破片は80代になって内出血を起こし、摘出手術をした。
地元の小学校からは戦争の体験を児童たちに語ってほしいと請われたが、固辞し続けた。山下さんが暮らす地域には、戦地で父や子を失った遺族もいる。「生き残った自分が人前で語ることは許されない」と思った。それでも戦後50年を過ぎた頃からは小中学校などで体験を語り始めた。戦地で起きたことを伝えるのが生き残った自分の使命だと考えるようになった。
「戦争がなかったら…」
戦後長く、沖縄の地を訪れることはなかった。「仲間たちは沖縄の土になった。その上を歩いて回るようなことはできん」と思ったからだ。2007年に日本傷痍(しょうい)軍人会(13年に解散)が主催した全国大会が沖縄であり、長寿祝いを受けるために一度だけ訪れた。「夜は戦友を思い出して寝付けなかった」
沖縄戦では兵士だけでなく住民も多く犠牲になった。その教訓として「軍隊は住民を守らない」と言われてきた。そう伝えると、山下さんは語気を強めて、繰り返した。「守れるものか。自分たちが生き延びることさえできないのに。死体を踏まないと進めないほどの生き地獄じゃ。守りたくても、守れるわけがない」
戦後に3人の子どもに恵まれ、やしゃごもできた。命が軽く扱われた80年前の戦争を、山下さんは「何のために人を殺さなならんか。よかったことは何もねぇ」と言い、10代で命を落とした仲間たちの名簿に改めて目を落とした。「遺骨もないんじゃ。戦争がなかったらどんなふうに生きたんじゃろうな」【平川昌範】
1000人切った軍人恩給の受給者
戦後80年となる中、太平洋戦争で日本軍の兵士として戦地などを経験した人はわずかとなった。
総務省などによると、存命する元兵士の人数を網羅したデータはないが、公的年金「軍人恩給」を受給する元軍人は2024年度時点で792人。戦後の廃止を経て、制度が再開された1953年以降初めて1000人を下回った。23年度に比べて4割超減り、ピークの約139万人(73年度)の0・05%。年齢別では100歳以上が645人で全体の8割超を占める。
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