宇都宮に広がる戦後の民間伝承 市民が意識した「軍都の宿命」

Date: Category:社会 Views:6090 Comment:0

宇都宮歩兵連隊跡忠魂碑=宇都宮市若草で2025年8月2日午後0時24分、有田浩子撮影 拡大
宇都宮歩兵連隊跡忠魂碑=宇都宮市若草で2025年8月2日午後0時24分、有田浩子撮影

 戦後80年が経過したが、資料や聞き取りなどをもとに、戦争のさまざまな側面を掘り下げる試みが続けられている。宇都宮市文化財ボランティア協議会の大塚雅之会長が「軍都」をキーワードに、近代宇都宮の成り立ちや空襲への影響などについて3回寄稿してくれた。

 昭和50年代初め、宇都宮市若草地区で、夜になると「カーン、カーン」と金属をたたくような不気味な音が響いた。正体不明のこの音は、やがて地域に伝わる軍隊由来の怪談と結びついていく。

 かつてこの地には陸軍の施設があり、若い新兵が飯ごうを紛失して上官から厳しく叱責(しっせき)され、それを苦にして井戸に身を投げたという話が語り継がれていた。この話は年配者のみならず、地域の子どもや地元の女子高校生にもよく知られたものであった。そして、謎の金属音は、「亡くなった新兵が、無念の思いで飯ごうを蹴っている音だ」と恐れられるようになり、ついには新聞にも取り上げられる騒動に発展した。

 後に音の正体は、近隣の店舗の室外機の不具合が原因だったと判明するが、この一件は、軍都という歴史がいかに地域の記憶に根づき、日常のささいな現象さえも特別な意味を持たせてしまうのかを象徴している。

大塚雅之・宇都宮市文化財ボランティア協議会会長 拡大
大塚雅之・宇都宮市文化財ボランティア協議会会長

 このような軍隊に関する記憶の継承は、宇都宮空襲にまつわる伝承にも色濃く見られる。宇都宮は明治期以降、陸軍第14師団司令部をはじめとする軍事施設や軍需産業が集積した複合型の軍都であり、その軍事的性格は1945(昭和20)年7月12日の空襲となって大きな被害を受けた。

 市街地の大半が焼け、620人以上が命を落としたこの空襲は、単なる戦災としてではなく、「軍都だから攻撃された」との語りとともに人々の記憶に刻まれている。周辺部では、「あの家の倉庫には軍の物資があった」「林の中に中島飛行機の資材が隠されていた」といった真偽が混濁した話が語られ、軍事との関係が空襲の原因として結びつけられている。

 中でも興味深いのは、「空襲は予告されていた」という伝承の広がりである。「明日(近日中)、空襲が来る」とのうわさが広まり、家財を運び出したり、子どもを親戚宅に避難させたりしたという。情報の出所は不明だが、実際に多くの市民のこうした行動が語られており、軍都としての「宿命」が意識されていたことを物語っている。

 これは近隣都市との比較でも際立っており、たとえば郡山では工場、水戸では交通の要衝という理由で空襲が語られる一方、宇都宮では「軍都だから」「中島飛行機などの軍需工場があったから」といった、軍事機能との結びつきを強調する語りが目立つ。

 前橋でも、「ある小学校に部隊が駐屯していたので焼け残った」「群馬県庁の建物が米軍の使用を前提に標的から外された」といった語りが存在しており、宇都宮同様、都市と軍事の結びつきに理由を求めていることがわかる。また宇都宮でも空襲を免れたお堂や祠(ほこら)には、軍事と信仰という異質な要素同士が、語りの中で共存している。

 こうした民間伝承は、たとえ事実と異なる部分があったとしても、その時代を生きた人々の感情や受け止め方を映す鏡であり、都市の記憶の中で重要な役割を果たしている。宇都宮の空襲伝承は、軍都という都市の性格とセットで語られ、戦災を何か「意味や理由があるもの」として捉え直そうとしたのではないだろうか。

 そうした語りが世代を超えて伝えられてきたことは、都市アイデンティティーの再構築に深く関わっていると思われる。記憶が継承される実態を丁寧に捉えていくことは、軍都という特殊な都市形態が、人々の災害経験にどんな影響を与えてきたのかを明らかにするうえで重要な課題だと思われる。(大塚雅之・宇都宮市文化財ボランティア協議会会長)

Comments

I want to comment

◎Welcome to participate in the discussion, please express your views and exchange your opinions here.