
終戦前夜の熊谷空襲で犠牲になった男性の胸ポケットから見つかった一枚の手ぬぐい。白地に日の丸と力強く染め抜かれた「神風」の2文字。そして四隅には赤黒い血痕が固まっている。戦時中は戦意高揚のために作られた布が、空襲の惨禍を刻む遺品として埼玉県熊谷市立熊谷図書館の「平和展」で静かに来場者を迎えている。その布の由来をたどると、戦後は狭山で「非武装こそ平和」を訴えた異色の元将軍に行き着く。【隈元浩彦】
無差別空襲の非道を今に伝える「血染めの手ぬぐい」。熊谷市在住の藤間憲一さん(79)の祖父、源一郎さん(享年50)の遺品だ。源一郎さんは、最も多くの死者を出した星川西端の旧墨江町で機械製造業を営み、居宅も同じ敷地内にあった。
その晩、消防団幹部でもあった源一郎さんは近所の人たちや家族を避難させた後、自宅の様子を見に戻ったところを、焼夷(しょうい)弾の先端部が左肩から胸にかけて貫通し息絶えた。
間近で目撃した長女の豊子さん(2018年、94歳で死去)は生前、「焼け跡には遺体がいたるところにあった。そして父の死。もう悲しみも通り越し言葉を失った」などと語っていたという。胸ポケットから見つかったのが「血染めの手ぬぐい」だった。当時、豊子さんは結婚しており、おなかには源一郎さんにとって初孫となる憲一さんを宿していた。
手ぬぐいには「神風」の文字とともに、「航空兵器総局長官 遠藤三郎謹書」としたためられていた。遠藤三郎(1893~1984年)は、帝国陸軍軍人として参謀本部作戦課、関東軍参謀、大本営陸軍部幕僚などの要職を歴任。最終階級は中将で、典型的なエリート軍人だった。
遠藤に関する諸資料は、戦後居を構えた狭山市の市立博物館に収蔵されている。その中には「神風」の手ぬぐいと、配布時に添えられた書面「神風ヲ贈ルニ当リテ」があった(以下、一部を現代仮名遣いに改めた)。
「若き神鷲等が最後の門出に今生に持てる一切を君国に捧げ尽さんとせるものなり(略)崇高無比純忠至誠の神風精神、之を銃後に伝え之を生産陣に徹せしめんがため神鷲の志を織込みたるもの即ちこの一筋の手拭いなり」と記し、「この手拭いはただ単に己が頭に鉢巻せんが為に非ず、己が心魂に鉢巻して自ら神風となり(略)米英撃滅の闘魂を燃え上がらせんが為なり」と檄(げき)を飛ばす内容だ。日付は1944年12月8日、真珠湾攻撃から3年目の記念日。この時、遠藤は軍需省の軍用機生産の最高責任者である航空兵器総局長官の職にあった。
同館所蔵の「遠藤日記」には同年11月11日、フィリピン戦線で特攻出撃した搭乗員30人から「航空機増産に役立ててほしい」と1600円の献金があったことが記されている。遠藤は「高潔なる心情に泣かさる」と書き留めた。評伝「将軍の遺言」(宮武剛著)によれば、「献金は靖国神社に奉納し、長官機密費で百数十万本の『神風』と染め抜いた鉢巻きを作り、航空機生産関係者へ配った」という。まさしく戦意高揚の「一億総特攻」のツールであった。
憲一さんは「軍需関連に携わっていたわけでもなく、なぜ祖父がこの手ぬぐいを持っていたのかは分からない。事実としてはっきりしているのは、その手ぬぐいをポケットにしまい、最期を迎えたことだけです」と語る。
戦意高揚の象徴の手ぬぐい。それが今では空襲被害の実相を示す貴重な「証言者」になっている。遠藤もまた、敗戦と同時に大きく方向を転じた。校長を務めたこともある入間川町(現・狭山市)の陸軍航空士官学校の跡地に入植し、くわを握って開拓農民として暮らし始めた。旧軍人の追放解除後は片山哲元首相とともに護憲運動に身を投じ、再軍備反対の論陣を張った。「世界連邦建設同盟」の常任理事を務めるなど、平和運動に取り組んだ。
コペルニクス的転回をした元将軍は、かつての同僚から「裏切り者」視されたり、「赤い将軍」と陰口をたたかれたりした。だが意に介することはなかった。特筆すべきは、かつて血みどろの戦いを繰り広げた中国を訪れ、民間外交の先駆けとなったことだ。毛沢東、周恩来と親交を結び、のちの日中国交回復に寄与したとも評される。
同博物館学芸員の吉田弘さんは「平和運動に身を投じたきっかけが何だったかは、日記からはうかがえない。ただ、実直な人柄で、軍の中にあっても組織の論理に流されず自分を持ち続けていたという意味では戦後も一貫している。日中国交回復での役割を含め、平和運動家としての遠藤はもっと見直されてもいい」と語った。
戦意高揚のために生まれた手ぬぐいが、空襲の無残を刻み、平和の貴さを今に伝える。同時に、ほつれた布地の向こうに、忘れられた反戦将軍の姿が静かに立ち上がってくる。
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