
母に新調してもらったワンピースを着て、東京・上野駅を発つ夜行に乗り込んだ。終戦前年の1944(昭和19)年8月。東京都江戸川区の荒木ひろさん(90)は当時9歳だった。
汽車が北に向かい、景色がだんだん寂しくなっていくにつれて心細さが募り、悲しくなった。「来なきゃよかった」
この年の6月、激しくなってきた空襲の被害を避けるため、政府は都市部の子どもたちを集団で地方に避難させる「学童疎開」を決定。江戸川区は山形県が疎開先と決められ、5111人が疎開した。うち4388人は鶴岡市の旅館や寺などで生活した。
国民学校4年生だった荒木さんは自分で希望し、4~6年生と教員の約130人と鶴岡市の湯野浜温泉に疎開した。
山あいの旅館で級友と一緒に寝起きし、「疎開は勝つため国のため、心と体は鍛えましょう」と歌いながらの乾布摩擦で朝が始まった。勉強したり、海に行ったり、教員から裁縫を習ったり。親元を離れた寂しさはあったが、旅館に滞在していた地元の湯治客にかわいがられ、ささやかながらも温かなもてなしも受けた。
1年ほどがたったころ、突然、祖父が訪ねてきた。東京大空襲で父が亡くなったと告げられた。「悲しくて寂しくて涙が止まらなかった」と振り返る。
ある日、旅館の窓に父が現れたように思え、驚いて寮母に知らせた。…
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