
「食べ物は粗末にするな」。父が繰り返した戒めを、娘は忠実に守ってきた。ありふれた道徳観念だが、そこには父の苛烈な体験が込められていた。
「飢えで体がプーッと膨らんだ兵隊は次の日には死んでしまう」「芋1個を盗んだ兵隊が木に縛られ、3日後に死んだ」――。海兵だった父、大塚君夫さん(2019年に96歳で死去)は、日本の南方約2800キロ、南太平洋のメレヨン島(現ミクロネシア連邦)からの生還者だった。
日本陸海軍は1944年以降、この島に約6500人を派遣。だが米軍によりほぼ補給を断たれ、爆撃で食料物資の多くを失った。サンゴ礁の小さな島々で自給もままならず、戦闘がないまま7割に当たる4493人が餓死・病死した。
大塚さんの娘、千賀子さん(67)=福島県白河市=によると「父は階級は低かったが、人を分け隔てせず島民とも仲良くなってヤシ酒や漁具の作り方などを教えてもらったそうです」。生還は、その性格が幸いしたのかもしれない。
食品卸会社を起こした大塚さんは復員後、戦時中の体験を隠すことなく語った。生還者・遺族でつくる「全国メレヨン会」の全国会合にも毎回出席した。
「戦死した戦友が枕元に立ち、『苦しくて仕方ないから、靖国神社に連れて行ってくれ』と何度も頼まれる。それも1人、2人じゃない」。そんな話に、子供、孫らは粛然となった。亡くなる直前には突然、病床で敬礼をした、という。千賀子さんは「戦友が迎えに来た」と思った。
◆ ◆

大塚さんは、一つの掛け軸を残していた。千賀子さんによると、メレヨン会の会合でもらった漢詩を書家に揮毫(きごう)してもらい、軸に仕立てたという。
「豪気堂々上孤島……」。そんな書き出しで始まる175文字。しかし、読み進むほどに「崩壊」「孤立」「無援」「不毛地」「捨剣執鋤(剣を捨て鋤(すき)を取る)」「籠城多苦辛惨憺(さんたん)」と続く。終盤には「饑(飢)餓」が2回現れた。
漢詩は上陸1年にあたり、メレヨン島の最高指揮官、陸軍独立混成第50旅団長の北村勝三少将が作ったものとされる。
当時の状況について、島の海軍側司令官だった宮田嘉信大佐(戦後に自決)が大本営に宛てた文書が残る。
精神教育も飢餓空腹の前には無効▽糧食庫、耕作地での盗難事件が頻発▽2、3人以上が徒党を組み、下士官が率いている▽私刑が極めて多く吊(つる)し首、絞り殺しなどが平然と行われている――。軍紀は崩壊していた。
終戦で島から復員した北村元少将は、全国に散らばる遺族への弔問の旅を続けた。メレヨン会が86年に作成した記念誌には、遺族に宛てた手紙も掲載されている。
「特に食糧不足に対する苦心の対策は戦争以上のものであり、人力の及ぶ限りの努力を致しましたが到底人間の力は及びません。何とも御詫(わ)びの申し上げようも御座いません(中略あり)」
メレヨン島での兵卒の死亡率(82%)が将校(33%)に比べて異常に高かったと報じられ、「階級差別があったのでは」と大きな社会問題となった。北村元少将は心を痛めたとみられ、手紙に「(記事は)誇張されている」とも記されていた。
北村元少将は遺族弔問を終えた1947年8月15日、敗戦2年後の「終戦の日」に故郷の長野市で自決する。遺書はなかった。
記念誌に寄稿した子息は父を「武人というよりは文化人、学者のタイプ」と回顧。その最期について、検視官から「古式にならった割腹の形式で、ひと突きで絶命されていた」と説明を受けたと書いている。
メレヨン会の関係者らは北村元少将を語るとき、今も「閣下」の尊称をつける。
千賀子さんは父の死後も会の慰霊祭に参加。「父親の顔を知らない遺族ばかり。申し訳ない気持ちもある」と吐露しつつ、北村元少将について「その覚悟は並大抵のものではない。今の日本人、政治家などはどんな責任の取り方をするのでしょうか」と語った。
◆ ◆
北村元少将は、菩提(ぼだい)寺である日蓮宗原立寺(長野市)に静かに眠っている。広島県福山市にはかつて率いた陸軍部隊の碑があり、遺族らが清掃作業を行っている。【高橋昌紀】
相次いだ軍幹部自決
阿南惟幾陸相が8月15日未明、杉山元・前陸相は9月12日に自殺。東條英機元首相は9月11日、戦犯として逮捕される直前に拳銃で自殺を図っている。神風特攻隊の生みの親、海軍の大西瀧治郎・軍令部次長は8月16日に割腹自殺した。九州で特攻の指揮を執った宇垣纒中将は、玉音放送後に部下を引き連れて特攻出撃し死亡。単独行を選ばなかったことへの批判もあった。
Comments