海に散った甲子園の土、パスポート必要な時代も 沖縄の高校野球

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阪神時代の安仁屋宗八投手 拡大
阪神時代の安仁屋宗八投手

 全国高校野球選手権大会は23日、阪神甲子園球場で決勝があり、沖縄尚学は夏の甲子園初優勝を目指す。

 第二次世界大戦で激戦地となり、米国の統治下の時代を経て甲子園に出場するようになり、沖縄は高校野球で屈指の強豪県になった。その歩みを振り返る。

甲子園の土を海に捨てられ

 沖縄に野球が伝わったのは1894年。沖縄中(後の一中、現首里高)が修学旅行で京都を訪れた際、学生が野球をしている姿を目にし、持ち帰ったとされる。

 その後、全国選手権の地方大会に沖縄勢が出場するなど、野球は沖縄でも盛んになっていった。

 だが、戦争の激化に伴い、1941~45年は全国選手権が中止された。沖縄でも一時、野球の文化が途絶えた。

 沖縄勢が初めて甲子園の土を踏んだのは58年。全国選手権が40回目の記念大会を迎え、各都道府県に沖縄を加えた47代表が参加し、沖縄代表として首里が出場した。

 首里はこの大会で惜しくも初戦敗退。メンバーは船で帰路に就いたが、思い出に集めた甲子園の土の持ち込みが認められず、那覇港への上陸目前で海に捨てられてしまった。

 当時の沖縄は米国の統治下にあり、法令に抵触するという理由からだった。ただ、この話を聞いた日本航空の乗務員が後日、法に触れない甲子園の小石を学校に送った。

春のセンバツ大会で優勝を決め選手たちに胴上げされる興南の我喜屋優監督=阪神甲子園球場で2010年4月3日、宮間俊樹撮影 拡大
春のセンバツ大会で優勝を決め選手たちに胴上げされる興南の我喜屋優監督=阪神甲子園球場で2010年4月3日、宮間俊樹撮影

パスポートが必要

 地方大会を勝ち抜き、夏の甲子園に沖縄勢として初めて「自力」で出場したのが62年の沖縄(現沖縄尚学)だ。当時は南九州大会で勝たなければ甲子園に出場できなかった。

 エースの安仁屋宗八さん(81)はその後、プロ野球の広島や阪神で活躍した。

 63年夏には首里が沖縄に初の甲子園勝利をもたらし、68年夏は現監督の我喜屋優さん(75)を擁した興南がベスト4まで駆け上がる。

 地元が大いに沸いた一方、当時は甲子園入りにパスポートが要るなど、沖縄と日本はまだ互いに「遠い存在」だった。

 72年の本土復帰を経て、沖縄は強豪県への道を歩み始める。

夏の甲子園の決勝で、力を振りしぼって投げる沖縄水産の大野倫投手=阪神甲子園球場で1991年8月21日撮影 拡大
夏の甲子園の決勝で、力を振りしぼって投げる沖縄水産の大野倫投手=阪神甲子園球場で1991年8月21日撮影

 90年夏は沖縄水産が沖縄勢初の準優勝。大野倫さん(52)がエースだった91年夏も準優勝した。

粘り強い投球で完投した沖縄尚学・比嘉公也投手=阪神甲子園球場で1999年3月30日、竹内幹撮影 拡大
粘り強い投球で完投した沖縄尚学・比嘉公也投手=阪神甲子園球場で1999年3月30日、竹内幹撮影

 99年春のセンバツで、沖縄尚学が甲子園大会で悲願の沖縄勢初優勝。当時のエースが、現監督の比嘉公也さん(44)だった。

夏の甲子園で優勝を決め、喜ぶ興南の島袋洋奨投手(左)と山川大輔捕手=阪神甲子園球場で2010年8月21日、大西岳彦撮影 拡大
夏の甲子園で優勝を決め、喜ぶ興南の島袋洋奨投手(左)と山川大輔捕手=阪神甲子園球場で2010年8月21日、大西岳彦撮影

 2010年には興南が島袋洋奨さん(32)を擁し、史上6校目の春夏連覇を達成した。今大会の沖縄尚学はこの時以来、沖縄勢として15年ぶりに夏の甲子園の決勝進出を果たした。

 今年は戦後80年。沖縄尚学の比嘉監督は「激戦地だった沖縄(のチーム)が80年の節目に決勝に進出するのはすごく価値あることだと思う」と話している。【深野麟之介】

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