
「私たちの肉親を、英霊とたたえないでください」
かつて靖国神社周辺では毎年、戦没者遺族による「平和遺族会全国連絡会」が終戦の日にデモ行進し、戦没者の合祀(ごうし)や閣僚の参拝に反対するシュプレヒコールを上げていた。
連絡会は主要メンバーが次々に世を去り、2020年11月に活動を終了した。しかし今も、参拝した閣僚らに抗議文を送り続ける元メンバーがいる。
父が戦死した吉田哲四郎さん(83)だ。02年、靖国神社に父の合祀について問い合わせたことがきっかけで、遺族も知らなかった戦死の真相にたどり着いた。
「無念の死を遂げた父を、戦争の旗振り役だった靖国が祭ることは、絶対に許せないのです」
<主な内容>
・1歳で戦死 遺骨なく「死亡通報」のみ
・平和遺族会参加のきっかけはあの首相
・「なぜ靖国が知っている」戦死の真相を求めて
・「合祀取り下げを」靖国神社の回答は…
・右傾化する世界「暗たんたる思い」
自分だけ父の記憶なく
「父が亡くなった時、私は1歳でした。一緒に過ごした思い出はなく、父の死もどこか遠い世界の話のように感じていました」
吉田さんは1941年、愛媛県で4男4女の末っ子として生まれた。
長姉とは19歳も年が離れ、一番年が近い3番目の兄とも4歳差。きょうだいの中で父と過ごした記憶がないのは吉田さんだけだ。
吉田さんの誕生時、46歳になっていた父滝蔵さんは、海運会社の宇和島運輸で機関長として働いていた。
「父が亡くなるまでは裕福だったと思います。南方から鈴なりになったバナナをお土産に持って帰ってきた、ときょうだいから聞いたこともあります。荒っぽいところのない、優しい性格だったようです」
父は「南シナ海で戦死」
滝蔵さんは会社の船ごと徴用され、43年8月13日に死亡した。吉田さんは1歳10カ月だった。
2カ月後、母ノブさんのもとに届いたのは陸軍からの「死亡通報」1枚と、白木の箱だけ。
紙には「南支那海海上ニ於(おい)テ敵機ト交戦ノ際戦死セラレ候」とあり、遺骨はなかった。
幼かった吉田さんは終戦時の玉音放送も覚えていないという。断片的ながらも戦禍の記憶はまぶたに焼き付いている。
「市街地に爆弾が落とされた時、家の中でもドーンという振動を感じ、家の土壁からパラパラと土が落ちるのを見ていた記憶があります。家の裏手の山中に掘った防空壕(ごう)の中から、空襲を受けた市街地に火の手が上がるのを見ていた記憶も残っています」
母子家庭で「タケノコ生活」
戦後、吉田さんは「父は南シナ海で亡くなった」とだけ聞かされて育った。
残された母子の生活は困窮し…
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