
第二次世界大戦末期の1945年8月10日、新潟県新潟市で米軍の空襲があり、約50人が犠牲になった。被害が大きかった新潟港を見下ろす水戸教(みときょう)公園(新潟市中央区雲雀町)には、犠牲者を悼む平和祈念碑があり、毎年8月10日に市が主催する献花式が開かれてきた。戦後80年の今年も10日午前9時から献花式がある。
水戸教公園の平和祈念碑は「恒久平和を願うシンボル」として1998年に市が建立した。高さ3・5メートルの石碑と、2・6メートルの石碑が向かい合うように建っている。
新潟市のシティガイドとして市内の戦跡などを案内する渡辺博さん(82)は「親子をイメージした石碑で、8月10日にちょうど二つの石碑の間に夕日が沈む」という。

平和祈念碑が追悼するのは8月10日の空襲犠牲者だけでない。
戦争末期、新潟港付近では銃爆撃や機雷投下があり、工場や民家だけでなく、連絡船「鉄工丸」や軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」といった船舶も被害を受けた。
こうした大戦で犠牲になった住民や新潟市出身の軍人や軍属、さらには強制連行や捕虜として新潟市に連れてこられ、死亡した外国人も含めて悼む施設が水戸教公園の平和祈念碑だ。
渡辺さんは「外国人の捕虜も合わせて慰霊する碑は、敵味方一緒に慰霊する沖縄の平和の礎(いしじ)を除いて、全国でも珍しい」と語る。

新潟港を封鎖するため、米軍は45年5月14日以降12回にわたって大量の機雷を投下した。その傷痕は戦後も長く残った。72年5月、しゅんせつ船の海麟丸(かいりんまる)が信濃川への入り口付近で触雷し、2人が犠牲になった。
渡辺さんは7月、市内で開かれた市民講座「新潟の戦跡を訪ねて」(クロスパルを楽しむ会主催)で講師を務め、こうした戦争被害について詳しく紹介してこう締めくくった。
「戦後80年という節目の年です。新潟市を中心に皆さんの近くで起きたことを知ってもらい、戦争の記憶をたぐり寄せてほしい」【杉尾直哉】
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