
長崎市の長崎原爆資料館に、1台の被爆ピアノが保管されている。爆風で飛び散ったガラス片が刺さったままのピアノが寄贈されたのは、41年前。これまで企画展などで公開されたことはあるが、現在は保存を最優先に同館の収蔵庫で眠っている。寄贈した松田勝三さん(81)=同市=に、ピアノを巡る思い出と平和への祈りを聞いた。
1945年8月9日。長崎の上空で米軍が投下した原爆がさく裂し、すさまじい衝撃と熱風が一瞬にして町に襲いかかった。松田さんの自宅は爆心地から2・8キロの地点にあった。防空壕(ごう)に着の身着のまま避難した家族は、自宅で昼寝していた当時1歳の松田さんを取り残してしまった。
あわてて自宅に戻った母セツさんは、爆風で崩れた部屋の中から松田さんを救い出した。松田さんのすぐそばで、ガラス片が刺さったピアノが傾いていた。松田さんに当時の記憶はないが「約200キロのピアノが傾いていた。原爆の威力はすさまじか」と後にセツさんが教えてくれた。
松田さんはその後1週間生死をさまよったが、何とか一命を取り留めた。「母がすぐ助けてくれなかったら、今あなたの前にいなかったかもしれない。私にとって8月9日は、第二の誕生日みたいなもんです」。そう記者に話してくれた。

松田さんは男3人、女3人の6人きょうだいの末っ子だった。次男誠二さんは戦前に1歳で病死。爆心地近くの三菱長崎製鋼所に学徒動員されていた、当時14歳だった長女嘉子(かちこ)さんは、無数のガラス片が背中に刺さったまま、家に何とか戻ってきた。「まだ若い娘なのに」。セツさんはひどく心を痛めたという。
戦後、小学生になった松田さんは、家のピアノにガラスが刺さっていることに気づいた。理由を尋ねても口数が少ないセツさんだったが、ある時、松田さんに「(嘉子さんの)背中の傷とピアノの傷が重なってしまう」と漏らしたという。

それだけではない。長男がピアノの前に座ると、セツさんはよく童謡「シャボン玉」をリクエストした。その理由は誠二さんだったとセツさんが明かしてくれたことがあった。「すぐに消えてしまうシャボン玉のはかなさに、幼くして死んだ次男を思い出していたのでは」と松田さんは言う。
「母にとってピアノは、美しいものだけではなかったと思う。それでも音楽が好きで、子供たちに弾き方を教えてくれた」。誰かがピアノを弾くと、自然と家族が集まって、みんなで歌を歌った。誰もが上手な演奏ではなかったが、家族だんらんの中心にいつもピアノがあった。
84年、高齢になったセツさんは、資料館にピアノを寄贈することを決めた。大人になった子供は皆家を離れ、家に置かれているだけの古いピアノ。「母なりに、家族と原爆にまつわる記憶を、ピアノという形で残しておきたかったんでしょう」。寄贈した翌年の85年、セツさんは78歳で生涯に幕を下ろした。そして、背中に大けがをした嘉子さんも2007年に76歳で他界した。
ピアノは現在、資料館の収蔵庫で眠っている。松田さんは、ピアノと同じように、被爆者をそっとしておいてほしいという気持ちになることもあるという。ただ、こうも思う。「血は流れずとも、ピアノは私たちの家族だった。ピアノを巡って、80年たった今も当時を振り返る機会が与えられていることに、母がピアノを残した理由を感じる気がします」【北山夏帆】
Comments