
長崎原爆で被爆死した母と、水上特攻兵として戦死した父が一緒に眠れるようこの夏、墓を建てた。長崎県時津町の被爆者、本田魂さん(81)は1歳の時、ともに20歳だった両親を亡くした。「自分みたいなもんは二度と出てほしゅうなか」。照りつける日差しに大粒の汗をかきながら、墓前で手を合わせた。
本田さんは1944年1月に生まれた。県立長崎工業学校を出て陸軍に入った父徳一さんは、本田さんが生まれた後、一度だけ顔を見に帰ってきたという。ベニヤ板製の小型艇に爆雷を積んで米駆逐艦に体当たりする特攻兵となり、フィリピン沖で45年1月に戦死したとされる。

45年8月9日、本田さんは爆心地の北西約940メートルの防空壕(ごう)内に敷いた畳の上で寝かされていて被爆した。壕の入り口が爆心と逆方向にあり、爆風でめくれ上がった畳が覆いかぶさったおかげで奇跡的に助かった。

だが、爆心地から約300メートルの旧駒場町の自宅に昼食を作りに帰っていた母貞子さんと祖母滝川美和子さん(当時49歳)は被爆死。真っ黒に焦げ、着物の燃え残りで遺体を判別した。
本田さんは祖父の滝川勝さんや、後に被爆体験の語り部として1万回以上証言をした親族の下平作江さん(90)らに育てられた。駒場町の自治会長だった祖父は、引き取り手のない犠牲者の遺骨を預かり、「無縁遺骨になった人は(死者を送る長崎のお盆の風習)精霊流しもできない」と考え、被爆翌年から町内の浦上川に灯籠(とうろう)を流す「万灯流し」を開始。47年に納骨堂を建てて死者の弔いをした。
本田さんも、浦上川で投網をしていた祖父を手伝うと、人の骨を見つけた。被爆直後に水を求めて川に入り亡くなった人とみられ、その度、納骨堂に入れた。
小学校は爆心地の西約500メートルの市立城山小に入った。校舎は壊れたままで、授業はバラックで受けた。被爆児らを集めた「原爆学級」に入れられ、半年に1回、米原爆傷害調査委員会(ABCC)に四輪駆動車で連れて行かれては、血液などを調べられた。

10代から屋根工事などの仕事を続け、2017年に祖父らの慰霊組織を引き継いだ被爆者団体「長崎原爆遺族会」の会長に就いた。万灯流しを続け、長崎の被爆者4団体のリーダーの一人として日本を含む各国要人との面会などを通じて核兵器廃絶を訴えている。
戦後、両親はそれぞれの本家の墓で弔われてきた。本田さんは被爆80年の節目に「たった一人残された子供として、自分が一緒にせんば」と考えた。熱線に焼かれ、朽ちて砂のようになった母の遺骨の一部を本家から分けてもらい、7月21日に新しい墓に納めた。父の遺骨は戻ってきていないが、墓誌に2人の名前を刻んだ。
両親を見た記憶も、優しく抱かれたぬくもりも知らずに生きてきた日々を「『済んだことやけん』と思わんば仕方なか」と振り返る。同時に「戦争はいかん。核兵器は使ったらいかん」と語気を強めた。【尾形有菜】
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