
運動会、神社の祭礼、人々の営みが確かにあった――。1945年8月9日、米軍が長崎に原爆を投下し、爆心地の西約500メートルで壊滅的な被害を受けた長崎市城山地区。被爆前に約4300人が暮らした地区内で戦前戦中に撮った写真が、前月に市外に転居した家族の元に残されていた。持ち主の男性は「城山には思い出がたくさんあったが、原爆という形で消滅してしまった。8月9日以前、ここにも日常生活があったことを忘れないでほしい」と願う。
40年代、原爆投下前の城山国民学校(現城山小学校)を捉えた一枚には、運動会でグラウンドに円になって踊っているような子供たちの姿があった。他にも、地区にある八幡神社で戦前の36年ごろに撮った記念写真、42~43年ごろに護国神社で祝詞を上げている様子の写真が並ぶ。長崎市の斉藤武男さん(87)は写真を大事に保管してきた。「神社の祝詞を上げる時に、子供のはなをすする音がしてはよく笑った。そんな思い出も全部消えてしまったから」
戦時中、城山地区で両親と兄欣一郎さん、姉、弟、妹の7人で暮らした。欣一郎さんは斉藤さんを自転車に乗せて一緒に遊んでくれるなど面倒見が良かった。
だが、兄弟は離ればなれで暮らすことになる。45年7月下旬、父の徴兵に伴い、宮崎県の実家に家族で引っ越した。当時14歳の欣一郎さんは市内の旧制中学に在籍し、造船所に勤労動員されていたため、爆心地の北約800メートルの長崎市大橋町で下宿することになった。
欣一郎さんからは、下宿近くの郵便局から8月2日と5日の消印で2通の速達が宮崎に届いた。5日消印の手紙では、長崎が敵機の空襲を受けたことを知らせ、「若(も)し死ぬとしたら醜くは死な無い積もりで居(お)ります」などと記していた。
消印の4日後、長崎に原爆が投下された。一家の自宅があった城山地区は…
Comments