
戦後80年の平和祈念映画として作られた丈監督、脚本、プロデュースの「ハオト」を見ている間、筆者の頭に浮かんだのはノーベル文学賞に輝くドイツの文豪、ギュンター・グラスの代表作「ブリキの太鼓」だった。
ニュージャーマンシネマを代表する監督、フォルカー・シュレンドルフによって映画化され、彼に第32回カンヌ国際映画祭グランプリの栄光と第41回ベネチア国際映画祭審査委員という栄光を与えた同作は、ギュンター・グラスの故郷であるダンチヒを舞台に繰り広げられる「ダンチヒ3部作」のひとつでもある。

ドイツを象徴「ブリキの太鼓」の精神科病院
1924年、ダンチヒで生まれたこの作品の一人称話者オスカル・マツェラートは、3歳の時に墜落事故で成長が止まってしまった。物語の始まりは、彼が30回目の誕生日を迎える54年。2年前からある精神科病院の住人になったオスカルが過去を回想する形で展開される。
精神科病院を舞台とする現在の時点と、オスカルが太鼓をたたきながら回想する1899年から1954年までのドイツの歴史が交差して混ざり合う中、ナチス政権の狂気に満ちた行動が可能だった社会的背景を告発する。
オスカルがブリキの太鼓をたたきながら声帯から発する超音波でガラスを割る姿は攻撃的で破壊的なナチスドイツを、成長を拒否した少年のままでいることは歴史意識と責任感を欠いていたドイツ小市民の自画像、または過去を清算できなかった戦後ドイツを象徴している。
丈監督の「ハオト」は、背景となる精神科病院が戦争の世界を象徴する一方で、逆説的に頂上の空間としてのアレゴリーとなっているという点では「ブリキの太鼓」と似ている。

生命力を持つ劇的空間に
しかし「寓意(ぐうい)」、「風喩」とも訳されるアレゴリーが、人物やその行為、背景が1次的な表面の意味だけでなく裏面の2次的意味を持つものだと意識しながら「ハオト」を見ると、ここでの精神科病院は「何か違うことを言う(other speaking)」という意味を持つギリシャ語のアレゴリア(allegoria)に近いと理解できる。
さらに面白いのは、「ブリキの太鼓」が「狂気の時代の化身」といえる主人公を設定し、彼を取り巻く人物の異常な関係や様相などを見せることで狂った日々を振り返り、それを認めた後に反省に進もうとすることに対し、「ハオト」は「中心と周辺部の二分法」に基づいて物語を構築するのではなく、多様で豊かな人物を登場させることで精神科病院を単なる舞台設定にとどめず、人物と相互作用する生命力を持つ劇的な空間として活用していることだ。
戯曲を原作としているために、一人一人の人物から作家的想像力があふれている点は、非常に見応えがある。

現代人のジレンマを擬人化したキャラクター
例えば、海軍のエリートだった水越(原田龍二)は、弟の死をきっかけに戦争と軍を批判し始めて精神障害扱いを受けるようになった。また荒俣博士(片岡鶴太郎)は、原子爆弾の実用化が迫ったことから解離性同一障害(多重人格)の症状を見せ始め、ほぼ毎日違う人になって周囲と観客を当惑させる。病棟の若い哨兵は、銃恐怖症のため発砲できない。
結局、世間の基準によれば「一人前の人間」が一人もいないという話だが、今日を生きる普通の人が当時にタイムスリップしたら直面したかもしれない道徳的ジレンマを、キャラクターとして擬人化していることに気づけば膝を打つほかはない。
その中でも特に注目したいのは、虚言症の診断を受けたが、口にする虚言の中の戦況が、予言のように当たる「閣下」(三浦浩一)。
その正確さに魅了され、軍の関係者さえも今後の戦勢について尋ねるこの人物の超能力をなくす方法は、逆説的にも「治療」なのだ。これはまさに、太刀打ちできない大きな国を相手に結果を予測できない戦争を始めた小さな国の現実を、そのまま投影させた人物ではないか。

映画的映像に具現化した丈監督の創作力
改めて言及すると、「ハオト」の精神科病院は、これら全ての人物の生活の基盤であると同時に、時には戦争の結果にかかわる外交活動の舞台となり、時にはそれ自体が戦場になるような、変化に富んだ「能動的空間」として機能している。
ここで特記すべきは、舞台であればそのメカニズムによって演劇的想像力で補う“足りないもの”を、「映画的映像」として視覚化したクリエーター、丈の創作力である。それを感じるにつけ、より多くの予算を使えたら、この映画全体が、その発端に置かれた、犯罪とは無縁の人生を送ってきたはずの老人の「人を殺した」という告白と同じくらい深い響きを残せただろうにと、悲しい思いも抱かせる。

村山彩希が体現した平和への意志
しかし「ハオト」には、低予算映画の限界を克服し、既存の反戦映画にはなかった力を発揮している点もある。それは、この完成度の高い群像劇の中の一人、21世紀の未来の男性と交信していると信じて伝書バトを飛ばし続けている少女、藍である。
アイドル出身者の演技に先入観を持っていた筆者を恥じ入らせた、元AKB48の村山彩希が演じた藍は、単に戦争の惨状を伝えるにとどまらず、現代の我々に「平和を守っていこう」という意志を呼び起こす。
評論家的な観点からはここに、巨匠ブライアン・デ・パルマが反戦映画の名作「カジュアリティーズ」(1989年)で披露した「1人2役による物語的連続性の効果」を見ることができる。
ベトナム戦争中の米軍の1小隊による戦争犯罪を告発した同作では、観客が予想しない瞬間に、被害者であるオアン(テュイ・テュー・リー)が別の人物として登場する。その瞬間、小隊の一員で、罪責感に苦しめられた揚げ句、自分の過ちを認めることで“生き地獄”から脱した主人公(マイケル・J・フォックス)に長かった悪夢の終わりを告げる。

ミニシアター文化が生んだ秀作
ただし「ブライアン・デ・パルマのオアン」が、いまだに議論が続いている歴史的問題にあまりにも簡単に決着をつけたという批判の余地を残すのに対し、「丈の藍」は、前世代の反省と平和への思いを継承しようとする戦後80年の決意を描いて揺るぎがない。
「悪夢の終わり」ではなく、「そこにとどまらず新しい希望が生まれる」という「反戦」。才能と熱情を兼ね備えたクリエーターの“小さな映画”が、戦後80年の意味を問う“巨大な映画”に生まれ変わった瞬間である。
ちなみにミニシアターという世界に誇る日本の映画文化がなければ、我々は決してこのような貴重な秀作に出会えなかったであろう。
8月8日、独立映画の聖地ともいえる東京・池袋シネマ・ロサを含め全国11のミニシアターで順次公開される、2000円の入場料が申し訳ないほどの価値を持つ「ハオト」が、一人でも多くの観客に出会えることを願う。
猛暑の中だが、日本人が1世紀近く大切に守ってきた平和への思いが進化していると確認するために上映館を訪れることこそ、真の値打ちがある映画体験ではないか。(洪相鉉)
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