「父のイメージは全くないんです」
「私を抱っこしている写真はあるんですけど。全く知らない人っていうか」
太平洋戦争末期の1945年、硫黄島(東京都小笠原村)で戦死した佐々木巍さん(享年31)の長女寛子さん(京都府宇治市、3日に81歳で死去)は毎日新聞の取材にそう話していた。
寛子さんが生まれた11日後の44年6月20日に出征した巍さんは、青山学院大神学部卒で日本キリスト教団の牧師だった。母愛さん(2010年に99歳で逝去)らに送った17通の「硫黄島からの手紙」では、妻子をはじめ家族や同僚らへのこまやかな気遣いを綴(つづ)るなど、温厚で誠実な人柄がうかがえる。
だが、寛子さんに直接の記憶はなかった。生後数カ月の時、横浜市から愛さんの実家があった愛媛県に疎開し、母子2人で暮らした。横浜時代から幼稚園教諭の資格があった愛さんは愛媛でも働き、保母を養成する専門学校の教員も務めて寛子さんを養った。「父がいない寂しさを感じさせないようにと思ったのか、母は私に父の話をあまりしなかった」と寛子さんは振り返った。
友達にも同様の境遇の人が少なくなかった。「お父さんが戦地から帰ってきても、その兄弟と母親が結婚していて、おじさんを父として育ったとかいう人は結構多かった」「そういう人の話を聞いても、私は母親を独占していたいというか、父が帰ってきたら嫌だと、どこかで思っていた。父を『いなかったもの』として生きてきた気がします」
寛子さんは松山市の高校を卒業後、同志社大神学部に進んだ。大学院に進学したが、学生運動の影響で中退し、結婚して出産。夫の留学を機に保母になった。子ども一人一人を尊重する新たな保育のやり方と出合って、当時の画一的な保育手法を変える経験をし、全国の保育園に伝える活動を引退後も続けた。
子育てと仕事を両立した寛子さん。1980年代に愛さんも松山から京都に呼び寄せ、一緒に暮らした。だが、家族で巍さんのことを話すことも、愛さんが大切に保管していた「硫黄島からの手紙」を読むこともほとんどなかった。戦死した父は「思い出すのもつらい存在」のまま、距離感は変わらなかった。
転機は2023年3月。3人の子に勧められ、寛子さんも一緒に硫黄島を慰霊訪問した。「死を直前にしても家族や同僚を思いやっていた父の手紙を子どもたちが読み、『すごい人だったと思う』と言ってくれた。ああ、そうなんだと、私も初めて父に申し訳なかったと思うようになった」「お父さんって呼んでみたかったし、甘えてみたかったという気持ちになりました」
自分だけではないと寛子さんは話していた。「私の世代は多くがそういう目に遭ったというか、幸せな幼児期を送った人は少ないと思う」
戦争で奪われた父の存在を身近に感じるまで、80年近い年月を要していた。
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7月27日にニュースサイトで報じた佐々木巍さんの「硫黄島からの手紙」は、孫の女性が先祖の生涯を調べる中で整理され、戦後80年の節目の記事につながった。両親や祖父母の歩み、その歴史に向き合った家族の姿を紹介する。
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