
国内外から1日に平均で24万人が利用する空の玄関口、羽田空港。その西側一帯にはかつて三つの町があった。
その一つの羽田穴守町に戦時中、軍需工場で働く男性たちのための「慰安施所」がつくられた。
しかし、働いていた女性たちの存在はほとんど知られていない。
連載「戦時下ですから」は全7回のシリーズです。
次回は 女性画家たちの気概と後悔
14日午前11時アップです。
臨時私娼黙認地域を認可
1945年9月21日、東京都蒲田区(現大田区)の穴守など3町は空港を拡張するため米軍に48時間以内の立ち退きを迫られ、ブルドーザーでほぼ跡形もなく造成された。
大田区史によると、明治以降に穴守稲荷神社が花柳界の信仰を集め、海水浴場もある一大行楽地となった。参道周辺に花街もあったが、満州事変以降、徐々に工場地帯に変貌していく。
そして、44年6月に慰安所が警察に認可される。
「穴守町七五〇番地付近六、五○○坪を産業戦士に対する慰安施設として臨時私娼黙認地域を認可」
蒲田警察署五十年誌の年表にわずか3行、その記述がある。
国が44年2月に出した決戦非常措置要綱により、風俗産業の待合などは休業を言い渡されていた。
米軍が西太平洋のサイパン島に上陸するなど激戦が繰り広げられていた頃に、なぜ慰安施設が認可されたのか。
「本当にお気の毒な人だった」
大田区で生まれ育った作家の小関智弘さん(92)は「黙認地域を認可という表現に苦し紛れな警察の姿勢がみえる」と指摘する。
55年に評論家が出した「売春風俗史」や区が88年に発行した「大田の史話」などによると、現在の江東区にあった洲崎遊郭が工員の寄宿舎に転用されるため43年に閉鎖された。その業者の一部が…
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