町工場のものづくりに生きる職人たちをテーマにした小説やノンフィクションを手がける東京都大田区の作家、小関智弘さん(92)は、現在の羽田空港(大田区)にあった「産業戦士用慰安所」について文献から掘り起こし、小説「羽田浦地図」(1982年発行)の題材とした。
戦争や国策に翻弄(ほんろう)され「性の防波堤」とされた女性たちや、日の当たらない「裏側の人々」を描いた思いを聞いた。【聞き手・西本紗保美】
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「昼はお国のため、夜は男のため」 産業戦士用「慰安所」の幻影
米兵の車の長い列
<玉音放送からわずか2週間後の8月28日、米占領軍向けの特殊慰安施設協会(RAA)第1号が小町園で開業し、一般女性を守る「性の防波堤」という大義名分の下、風俗産業の女性や働き口を求める女性を募集して米兵の相手をさせた。毎日新聞にも9月3日、「衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ」などとうたう「特別女子従業員募集」の広告が載った>
現在の大田区で生まれ育ち、終戦時は12歳でした。戦前から栄えていた大森海岸の花街が身近にありました。
卒業した入新井第五国民学校(現入新井第五小学校)の近くには「小町園」や「悟空林」という料亭が大森海岸駅そばの京浜国道を挟んだ海側にありました。
芸者さんの髪結いや(芸者の派遣元の)置き屋の子どもたちが同学年にいて、よく一緒に遊びました。
終戦からまもなく、小町園に横浜方面から来た米兵のジープ型の車が長い列を作っているのを見ました。
線路の近くで、菰(こも)の掛かった女性の遺体を見かけたのも覚えています。RAA開業後、線路に飛び込み自殺した従業員の女性がいたことを後に知りました。
「モク拾い」で巻きタバコ作り
<RAAは性病のまん延や米国本土からの批判を背景に、46年3月に閉鎖した。代わりに「パンパンガール」と呼ばれる女性たちが街に立つようになった>
真っ赤な口紅をつけたパンパンガールをよく見ました。「オフリミット(立ち入り禁止)」後も米兵たちは大森海岸近くの建設間もない公営住宅に女性を連れ込んでいたようです。
子どもだったので、性に関することはなんとなくしかわかりません。神社の裏側で米兵とパンパンガールがいざ事を始めようというときに、米兵のかばんを奪ってみんなで走って逃げたこともありました。
弟を連れてよく「モク拾い」にも行きました。日本人のタバコの吸い殻は短いけれど、米兵のは長くてね。パンパンのには赤い口紅がついていました。
家に持ち帰って葉をほぐして、紙でまき直せば完成。タバコが買える時代じゃなかったから、おやじは喜びました。
「裏側の人々」を描く
<小説「羽田浦地図」は、45年9月、空港拡張のため米軍に48時間以内の立ち退きを迫られた羽田穴守など3町の地図を作ろうとする元住民が題材となっている。NHKのドラマ版では緒方拳さんが羽田の町工場の職人を、藤村志保さんが終戦の1年2カ月前に蒲田警察署から認可された「産業戦士用慰安所」で働いた女性をそれぞれ演じた>
子どもを連れて羽田空港に出かけたとき、海老取川を挟んだ羽田の街を覆い隠すように、大きな企業のネオン広告が並んでいるのを見て、「看板の裏側にいる人たちはどうしているんだろうか」と気になりました。
大田区の町工場の職人として、世間には知られていないが、一生懸命働いている人たちがいっぱいいるのに……という気持ちで、「裏側にいる人たち」を描きたかった。
穴守町の元住民から戦前、穴守稲荷神社参道沿いにあった飲食店から「寄ってらっしゃい、召してらっしゃい」という呼び込みの声が飛び交っていたと聞き、にぎやかな街の雰囲気が一気によみがえり、イメージが膨らんでいきました。
資料を調べるうち、「蒲田警察署五十年史」の44年6月の年表に「穴守町七五〇番地付近六、五○○坪を産業戦士に対する慰安施設として臨時私娼黙認地域を認可」というわずかな記述を見つけました。
現在の東京都江東区にかつてあった洲崎遊郭から来た業者たちがつくった「産業戦士用慰安所」は、地方から上京した工員や、家族がいない工員たちの性欲を満たすため、警察と業者、そして軍需工場が結託してつくったのだと思います。
当時の旧3町を元住民たちが復元した地図には、穴守町だけが「昭和十九年の洲崎業者転入直前」と書かれています。
私の勝手な推測ですが、旧3町の元住民たちは「自分たちの町ではなくなってしまった」と恥ずかしく思い、地図には残さなかったのではないでしょうか。
こせき・ともひろ
1933年、東京市大森区(現東京都大田区)生まれ。都立大付属工業高校卒業後、大田区で町工場の旋盤工として約50年間働く。79年、「羽田浦地図」で芥川賞候補。同作は84年、「錆色の町」とともにNHKでドラマ化された。
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