焦土の記憶、平和の重み 1945年の記録写真と80年後の風景

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(上)多くの人が行き交う数寄屋橋交差点。右端の建物は「東急プラザ銀座」=東京都中央区で2025年8月2日、新宮巳美撮影 (下)空襲を受け、消火活動する人たち。右端の建物は現在の東急プラザ銀座に位置する=1945年1月27日
(上)多くの人が行き交う数寄屋橋交差点。右端の建物は「東急プラザ銀座」=東京都中央区で2025年8月2日、新宮巳美撮影 (下)空襲を受け、消火活動する人たち。右端の建物は現在の東急プラザ銀座に位置する=1945年1月27日

 第二次世界大戦中、日本の上空を米軍の爆撃機が飛び交っていた。街は焼夷(しょうい)弾で焼け野原となり、子どもたちは集団疎開した。

 沖縄での地上戦、広島と長崎に落とされた原爆、日本各地での大空襲などで多くの命が奪われた。この大戦を通して300万人以上が亡くなったとされているが、正確な犠牲者の数は今も分かっていない。

 終戦後、生き延びた人々はがれきの風景を少しずつ発展させ、現在の姿に様変わりさせた。空襲の被害を受けた銀座で、歩行者天国を歩く人々の姿からは、戦中の面影を見つけることが難しい。

 終戦後に撮影された写真から、人々が懸命に生き延びた息づかいや、戦後の過酷な状況が浮かび上がる。当時の写真の風景を訪れ、平和の重みを改めて考えた。【滝川大貴】

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