
昨春のセンバツ大会優勝投手が、500日ぶりに甲子園のマウンドに立った。長い道のりがあった。
「センバツで優勝し、手術を経験したことが自分の人生の中でとても大きい」
阪神甲子園球場で13日にあった全国高校野球選手権大会の2回戦で京都国際に3―6で敗れた健大高崎(群馬)の佐藤龍月(りゅうが)選手(3年)は試合後、こう語った。
背番号7をつけた佐藤選手はベンチスタートで、三回にブルペンへ向かうと、肩を作り始めた。
3―4で迎えた四回、2死一、三塁のピンチで3番手投手として名前が場内にアナウンスされると、湧き起こった拍手に包まれながらマウンドに上がった。
相手は3番の左打者。1ボールからの2球目、左腕から141キロの直球を内角へ投げ込んだ。詰まらせて遊ゴロに打ち取り、ベンチに引き揚げると笑顔を見せた。
この窮地は切り抜けたが、その後は球に力が入らなかった。五回と六回はいずれも先頭打者に四球を与え、適時打で1点ずつ失った。
2回3分の1を投げて2失点。前回大会王者の京都国際打線の勢いを止められず、試合後は悔しさから涙を流したが、充実感も口にした。

「甲子園の舞台にまた帰って来られたことがとてもうれしかった。投げる前は緊張もあったが、実際にマウンドに上がった時に歓声が上がり、帰ってきて良かったと思えた」
佐藤選手はキレのあるスライダーと直球を武器に、背番号1を背負った昨春のセンバツ大会は準々決勝までの3試合で先発。準決勝に続いて救援登板した2024年3月31日の決勝、報徳学園(兵庫)戦は九回から投げて試合を締めた。
その夏も中心選手として9年ぶりの群馬大会制覇に貢献した。
しかし、左肘が悲鳴を上げる。得意としていたスライダーの多投と、インステップするフォームは肘に負担がかかっていた。飲み物を飲む時、入浴時のちょっとした動作にも痛みが走った。
夏の甲子園大会開幕前に靱帯(じんたい)断裂と疲労骨折が判明し、ドクターストップがかかった。8月末には内側側副靱帯再建手術「トミー・ジョン手術」を受けた。長いリハビリ生活が始まった。

1年後に甲子園のマウンドに立つ姿は想像できなかった。
「最初に(手術を)決断した時にはほぼ諦めかけていたところがある。本当に多くの方に支えられてここまで来られた」
投げられない期間は、フォームを見直してウエートトレーニングで体を大きくするなど、体作りの時間に充ててきた。今春のセンバツ大会は全4試合に代打で出場した。
手術から約9カ月後、群馬大会を前に今年6月、投手として実戦復帰を果たした。群馬大会では7月19日の3回戦で登板し、147キロをマークするなど中継ぎで2試合に登板して無失点。チームは2年連続の夏の甲子園大会出場を決めた。

佐藤選手が不在の間、チームの背番号1を付けたのが、石垣元気選手(3年)だった。最速156キロのプロ注目右腕は、1年生の時から佐藤選手と試合に出場し、切磋琢磨(せっさたくま)してきた。
だからこそ、佐藤選手が甲子園のマウンドに戻ったことに、特別な思いを感じていた。
「1年前に龍月がいなくなって、自分が背番号1を引き継ぎ、龍月の思いも背負って投げていた。改めてすごさを知ることができた。1年ぶりに帰ってきたんだなって見ていて感動した」
試合後は2人でクールダウンのキャッチボールをした。インタビューエリアでは互いに「ありがとう」と感謝の言葉をかけ、固い握手を交わした。
健大高崎の青柳博文監督は佐藤選手について「非常に気を使いながら一生懸命やっていた。復帰させてやりたいと思い、やってきたので、甲子園のマウンドに立たせられて良かった」とねぎらった。
佐藤、石垣両選手について「うちの歴史の全てと言ってよいかもしれない。2人がいなければ、こういう結果はなかった。注目を集め続けながら3年間野球をやってこられたので、自分としても非常に良い経験をさせてもらった」と話した。
佐藤選手も石垣選手もプロを目指しており、今秋のドラフト会議に向けてプロ志望届を出す予定だ。目標は2人で球界を代表する投手になること。佐藤選手はこう語った。
「他の人は経験できないぐらいのたくさんの経験をさせてもらった。全て前向きに捉え、これからの人生に生かしていきたい」
激動の高校時代は必ず今後への糧になるはずだ。【高橋広之】
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