子供たちの前で声を上げて泣いた校長 玉音放送後も続いたひもじさ

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卒業写真を見ながら空襲被害があった日を思い返す近藤良子さん=滋賀県彦根市八坂町で、2025年8月13日午前11時34分、菊池真由撮影 拡大
卒業写真を見ながら空襲被害があった日を思い返す近藤良子さん=滋賀県彦根市八坂町で、2025年8月13日午前11時34分、菊池真由撮影

 城南国民学校(現滋賀県彦根市立城南小)付近で10人が亡くなった1945年6月26日の米爆撃機B29による空襲。それから1カ月あまりがたった夏休み中の8月15日、終戦を迎えた。だが、安堵(あんど)した当時国民学校6年生の近藤良子さん(91)=彦根市=につらい現実が待っていた。脳裏にこびりつく80年前の「ひもじさ」。近藤さんは飢えにもつながる争いが今も世界で起き続けていることに顔を曇らせる。

 「正午に天皇陛下の大事な放送があるから集まりなさい」。45年8月15日、近藤さんは校庭に向かった。集合した子供たちの前の机に置かれたラジオから昭和天皇の声が聞こえてきた。

 級友とともに頭を下げながら玉音放送を聞いたが、口調や言葉が難しく、理解することができない。放送の途中で、校長先生がひざまずき、「ハア、ハア、ハア」と声を上げて泣き出した。放送が終わると、校長先生は「戦争が終わり我が日本は負けた」と叫んだ。

 その姿を見た近藤さんは、「これで爆弾が落ちてこないんやな。家族が散り散りばらばらにならんと暮らせるんやなあ」と胸をなで下ろした。

 自宅に戻ると、父から「もう戦争は終わったから何も隠すことはないんだよ。窓を開けて生活していていいんだ」と言われた。戦時中は、夜中に光が反射すると敵に見つかってしまうため、一個の電球を黒い風呂敷で包み、小さな明かりの下で暮らしていた。その夜、妹が生まれた。部屋中を明るく照らした電球の下で命の誕生を祝った。「名前は和子。終戦の晩に生まれたから平和の象徴として。本当にうれしかった」と近藤さんは笑みを浮かべる。

 だが、平穏な日々は長くはなかった。近藤さんは「戦時中よりも戦後の食糧難が厳しかった」と振り返る。近藤さんの家ではコメを作っており、近藤さんも手伝っていた。だが、大半のコメは供出された。「お弁当には麦の混ぜたご飯を詰めていた」。雑炊で紛らわすことも少なくなかった。自分も汗水垂らしてできた目の前のコメがそのまま口に入らない。だが、それでもまだましだったかもしれない。「農家でない人は何も食べられなかった。栄養失調で亡くなった知り合いもいた」。戦争は終わったのに――。近藤さんは「いばらの道だった」と表現する。

 5人の孫と4人のひ孫がいる近藤さん。顔を思い浮かべると安らかな気持ちになり、同時に少しの使命感も湧き上がる。「わたしらは『もったいない』というのは抜けない。食べるものが無い時のひもじさからきている。いまはどんなものでもお金を出したら買える。けれども、使えるものは使わんと。このことはだんだん通用せんようになってきたけど、後世に伝えていきたい」

 今も世界中で争いが起きている。近藤さんはテレビでそんな報道を見るたびに80年前を思い起こす。「なんで戦争が終わらんやろな。いろいろ言い分があって続けてはると思うけど、なんとか早く停戦状態になるようにしてもらへんのかな」とため息をつく。そして平和になってからの日々を振り返り、つぶやいた。

 「私もここまで無事に生きた。どうかこの畳の上で死なせてほしいと思う」

 爆撃や飢えのない「これから」を願っている。【菊池真由】

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