
戦後とはいつからか――。80年前の8月15日に終戦を告げる玉音放送が流れた後も、一部の戦場のみならず日本国内でも「戦時下」と呼べる状況が続いた。その歴史的な事件が忘れ去られないよう、追い続けている人たちがいる。
黄ばんだ紙に、手書きの文字。達筆ではないが、丁寧に書かれている。手記をまとめるための草稿のようだ。
「小園大佐は(無条件降伏を)『側近の奸臣(かんしん)』の謀略と断じ、断固終戦反対を叫び、米軍の厚木進駐を阻止するとの無謀なる行動を起こした」「米軍の先遣隊と交戦していたら(中略)日本の運命はどうなっていたかとゾットしています」――。
福島県三春町の菓子店を兼ねた民家の書斎。保管されている10以上の冊子は「大東亜戦争中に経験した秘録」「厚木事件の真相」などの表題がつけられ、推敲(すいこう)の跡も残る。
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書き残した佐藤六郎さん(1986年死去)は、現在の同県田村市出身の旧海軍大佐。海軍機関学校出の技術士官で、航空機分野のエキスパートだった。
埼玉県にある軍需工場の監督官として1945年8月15日を迎えた佐藤大佐は、思わぬ任務を依頼される。
厚木海軍飛行場(神奈川県大和市など)を束ねる小園安名大佐が降伏を受け入れず、反乱が公然化。米内光政海相、大本営海軍部所属だった高松宮宣仁親王の説得も奏功せず「小園鎮撫(ちんぶ)」の声がかかったのだ。
佐藤大佐は、兵器開発などを通して小園大佐と親交を深めていた。気が合ったのだろう。「ガ(ガダルカナル)島の勇将」と友を高く評している。二人の関係を、軍上層部はよく知っていたのかもしれない。
手記などによると、佐藤大佐は同24日に現地に到着。「鉄砲、機銃と日本刀を持ち、焚(た)き火を囲んでいる集団が大勢いた」状況に戸惑いつつ、その筆は「反乱派」と「恭順派」に分かれた飛行場の様子を冷静に描いていく。
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このとき既に小園大佐は拘束され、対面の機会はなかった。それでも、まだ重要な仕事が残されていた。「(滑走路などに)バラ撒(ま)いてある飛行機を片づけてマ(マッカーサー)元帥を迎える準備」だ。

連合国軍到着は、当初2日後とされた。大量の飛行機の残骸が散らばるが、混乱で「陸海軍共に使えません」。手記に添えられた見取り図には、滑走路外れの雑木林の場所に「反乱軍」の文字。「小銃着剣の兵、日本刀、ピストルの反乱軍が押し寄せる」ことも危惧され、日本軍による「ダマシうち」があった場合の連合国側の避難経路も書き込まれていた。
平和進駐が進まないと、連合国軍の武力行使も予想される。佐藤大佐は土建会社「大安組」に助けを求めた。危険なうえ敵受け入れという「国辱」の仕事を作業員が渋る中、佐藤大佐の気迫に応諾したのは旧知の安藤明社長だった。

無事任務を遂行し、同28日に先遣隊、30日にはマッカーサー元帥が厚木に降り立った。佐藤大佐はその後、今度は作業員の労賃補償のために奔走することになる。
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冊子など一連の記録は2010年10月ごろ、神奈川県鎌倉市の旧居で見つかり、親戚筋で三春町の菓子店主、高橋龍一さん(61)に託された。高橋さんは郷土史研究家でもあり、PR紙「塵壺(ちりつぼ)」(1万5000部)を毎月発行している。早速、「歴史に埋もれた郷土の先人」として佐藤大佐を紹介した。
すると地元の高齢者などから、さまざまな戦争体験談が寄せられるようになった。
「近所の鍛冶屋が実は元爆撃機パイロットで、特攻の非合理性を技術面から説明してくれた」「平壌にいた薬剤師は、後送される負傷兵が増えるのに接し『戦争は負けだ』と感じたそうだ」
高橋さんは、これらの戦争の記憶を埋もれさせてはならないと強く思う。「平和のために困難な任務に立ち向かった佐藤大佐、安藤社長の心意気を知ってほしい」
手記では小園大佐について「軍上層部が新兵器採用や特攻反対など自身の提言を退けておいて降伏したので、不信感を抱いたのでは」と推測。「良い部下を持った。だから強かった」とも書いていた。高橋さんは命令を拒んだ小園大佐は間違っていたと思いつつ、戦争を終わらせる難しさを痛感するという。
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厚木航空隊に所属していた戦死者は大和市の深見神社の境内にある「厚木空神社」にまつられ、毎年4月に地元有志を中心に慰霊祭が開かれる。遺族は徐々に減り、今年は参列者約50人の中で1組だった。【高橋昌紀】
厚木航空隊事件
日本政府のポツダム宣言受諾に対し、厚木海軍飛行場の航空隊司令、小園安名大佐が徹底抗戦を主張。1945年8月15日の玉音放送後に抵抗呼びかけの空中散布、他の航空隊への決起要請などをした。同21日に小園大佐が拘束され、事態は収拾に向かった。
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