全国高校野球選手権で初の決勝に進出した沖縄尚学の比嘉公也監督(44)は、エースとして出場した1999年センバツ大会で沖縄勢初の甲子園大会優勝に貢献し、2008年春には監督として母校を優勝に導いた。まだ見ぬ深紅の大優勝旗を目指し、23日の日大三(西東京)との決勝に臨む。
沖縄県名護市生まれの比嘉監督は06年に母校の社会科教員となり、野球部の指導に携わってきた。この間、春夏の甲子園大会に計11回出場し、今大会の準決勝までに21勝。東浜巨(なお)投手(ソフトバンク)らプロ野球選手を多数育てた。高校時代の実績も含めて沖縄球史に刻まれる人物だ。
かつてはハードワークを強制
近年、その指導法は確立されている。選手には「やってほしくないことだけを伝える」「コーチに任せるところは任せる」と型にはめないスタイルを志す。
その原点には25歳を目前に監督となり、試行錯誤してきた日々がある。
「監督が交代して勝てなくなったと言われたくなくて、選手たちに強制的にハードワークを課す一方通行の指導をしていた」との悔いがあるからだ。
23年のU18(18歳以下)W杯(ワールドカップ)では投手コーチとして世界一に貢献するなど、指導経験を重ねてきた。選手と年齢差も広がり、距離感も変わる中でたどり着いた境地だ。「僕がやれというより、自分たちで考えてやっている。そのほうが良い」とうなずく。
PL相手に212球の熱投
選手としても輝かしい功績がある。左腕エースとして臨んだ高校3年時のセンバツ大会では、制球力やキレの良い変化球を生かして活躍し、沖縄勢初優勝へとけん引した。1回戦で完封し、31年ぶり2回目の出場のチームに大会初勝利をもたらすと、準決勝のPL学園(大阪)戦では延長十二回を1人で投げ抜き、212球を投じて激戦を制した。同年夏の甲子園にも出場した。
愛知学院大では入学直後にひじを故障し、公式戦登板は2年秋の1イニングだけだった。指導者を志し、3年秋から学生コーチに転身。教員免許を取得したが、沖縄県の教員採用試験は合格できず、スーパーでレジ係をしながら大学の聴講生になった。その2年後、社会科教員として母校に採用され、今に至る。
監督と先生で別人格
選手たちの目には監督の姿はどう映るのか。
中軸の比嘉大登選手(3年)は「野球の時はめちゃくちゃ厳しいが、授業や学校生活では優しい方。グラウンドでは人が変わるんです」と笑う。
さらに「授業が面白い」と評判だ。社会科教諭らしく話題になっている時事問題を分かりやすく解説してくれて、理解が深まるという。学校生活では急に「こちょこちょ」とちょっかいをかけてくるなど、フレンドリーに接するという。
ただし、グラウンドでは皆が「別人格」と声をそろえる。今大会の準決勝の山梨学院戦ではエラーが続き、一時は3点を追う展開になった。比嘉監督は試合中に「こんな情けないプレーをして、お前らは最後を迎えるのか」と叱ったという。
発奮したチームは持ち直して逆転に成功した。主将の真喜志(まきし)拓斗選手(3年)は「監督は勝ちに熱心な方。時には厳しく叱ってくれるし、気持ちを上げる言葉もかけてくれる。すてきな監督です」と信頼を寄せている。【長宗拓弥】
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