
「島は楽しかったよ。ただ、みんな逃げて、残されたことは苦しかった。寂しかった」
北海道稚内(わっかない)市に住む網谷博さん(91)は遠くを見ながら歯舞(はぼまい)群島北端の多楽(たらく)島での生活を思い出した。
1947年11月に北方領土からソ連軍による樺太(からふと)(現ロシア・サハリン州)への強制移住を経て、北海道に引き揚げた船の乗船名簿には多楽島民は11人しか載っていない。
網谷さん一家は、島に残った「最後の住民」に含まれていた。
多楽島は面積約11平方キロ。サケやマス、コンブ漁が盛んで、缶詰工場もあった。終戦時は1400人以上が暮らしていた。
「島民みんなが仲が良くて助け合って、本当に幸せだった」。話を聞いた元島民は口をそろえる。
ところが、多くの島民は終戦と同時にソ連軍が上陸すると知り、自力で舟をこいで島を脱出していった。
残った2家族の生活は
島に最後に残ったのは2家族11人。終戦から引き揚げまでの2年3カ月間、どう過ごしたのか。なぜ2家族だけが残されたのか。
調べると、最後に島に残ったのは、網谷さん一家と根室市に住む河田弘登志(ひろとし)さん(90)一家だった。
2家族のルーツは富山県。豊かな海産物を求めて島に移り住み、コンブの採集・加工や運搬に従事した。
稚内で網谷さんに、根室で河田さんに話を聞いた。
網谷さんが40年代の写真を見せてくれた。多楽尋常小学校の写真に並ぶ男の子は、靴を履いていない。「みんな朝から砂浜でコンブを干して、裸足のまま学校に滑り込んでいたんだよ」。生活の様子が垣間見える。1学年下だった河田さんとも交流があった。
終戦間近の45年6月。肺を患った網谷さんの母千代さんが根室市内の病院に入院し、11歳だった網谷さんが付き添った。
入院後に米軍による7月14、15日の根室空襲に遭った。病院は焼失。2人は町外れの馬小屋の2階に逃げ込み、難を逃れた。
「空襲がなければ、病院で元気になっていたかもしれない」。完治しないまま、島に戻ることになった。
2家族の事情
終戦後、ソ連軍の上陸を聞きつけた網谷さんの父鶴松さんは、家族全員が乗れる大きな船を取りに単身で根室に向かったが、島には戻ってこられなかった。
島民らは次々と脱出していたが、網谷家は鶴松さんが戻らず、千代さんは病気で身動きできない。脱出は考えられなかった。
一方、河田家はどう過ごしたのか。河田さんの家には長靴を履いたソ連兵2人が土足で入り込んできた。「何か隠していないか」と威嚇するように銃で天井をドンドンと突き、バリカンなどを持ち去った。
緊張が高まることもあった。ある日、元島民とみられる日本人4人が上陸。夜間に逃げ出そうとした1人がソ連兵に銃殺されたという。
河田さんは、20代のソ連兵アレクセイを覚えている。毎日のように家を訪れ、自家製の甘酒をおいしそうに飲んだ。身ぶり手ぶりと簡単なロシア語で交流を深めた。
河田さんは45年秋、学校に行くため、二つ年下の弟と、親戚の船で根室に向かった。なぜソ連軍が許可したのか。公的な理由を知る人はいなかった。
去り際、アレクセイに呼び止められ、「向こうに行ってもないと思うから」と、小学校にあった机を二つ渡された。根室では一つを家で、一つは学校で大切に使った。
弘登志さんら兄弟2人を除いた河田家が島に残った理由を聞くと、河田さんは「ソ連軍の指示で、家の船を使って日本軍の弾薬を海中投棄する作業をやらされていたから」と説明した。
母の死、父との再会
網谷さんの母千代さんは46年2月、父鶴松さんと再会できないまま亡くなった。島では満足な治療を受けられなかった。
「ああ楽になったな、母さん」。涙も出なかった。
残された5人きょうだいは母を布団で包み、木箱に納めた。…
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