
死んだ兄の被爆を認めて――。米軍による広島への原爆投下から80年となる6日、広島市で開かれる平和記念式典で、山口県出身のある男性の名前を刻んだ新たな原爆死没者名簿が奉安される。男性は原爆投下の10年後に亡くなった。今年加わるきっかけとなったのは、5歳下の弟による毎日新聞への投稿だった。
「吉中勇さんのお名前を原爆死没者名簿に登載します」。2月末、山口県柳井市に住む弟、吉中直美(なおみ)さん(89)に、広島市の担当者から電話が入った。「やっと兄や母に報告ができる」と心から思った。
勇さんと直美さんは山口県南東部の屋代島(現周防大島町)で生まれ育った。農業を営む父と母、末弟を含めた5人家族。直美さんが母から聞いた話によれば、勇さんは国民学校高等科に在籍した13歳ごろ、学徒動員で広島市に入り、国鉄の線路工事に携わっていた。
勇さんは1945年8月6日のことを母に少し話していた。それによれば、爆心地から約3キロ離れた広島市南蟹屋町(現広島市南区南蟹屋)で、汽車の邪魔にならないよう線路のそばで休憩していた時、熱線を浴び、首にやけどを負った。その後も数日間市内に滞在し、遺体の運搬に携わったという。
戦後、屋代島に戻った勇さんは、周囲に被爆を語ることなく、げたを作る工場で働き、家計を支えた。
原爆投下から10年が過ぎた55年9月、勇さんは昼寝をしながら静かに息を引き取った。25歳だった。兄の異変の前後を知る叔母は「普段と変わらなかった」と言った。直美さんは火葬場で兄の遺体が焼かれる間、ぼうぜんとしていたのを覚えている。
島の診療所は…
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