100基の慰霊碑巡り平和記念公園へ 被爆ピアノに込められた思い

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平和記念公園の原爆慰霊碑前で演奏される「被爆ピアノ」=広島市中区で2025年8月5日午後4時45分、大西岳彦撮影 拡大
平和記念公園の原爆慰霊碑前で演奏される「被爆ピアノ」=広島市中区で2025年8月5日午後4時45分、大西岳彦撮影

 二度と核兵器の被害が起きないように――。6日の広島原爆の日を前に、被爆者やその思いを受け継ぐ市民たちが世代や国の違いを超えて、核兵器廃絶と原爆犠牲者の鎮魂を祈った。

 この約1年半、広島市内で約100基もの慰霊碑に「被爆ピアノ」の演奏をささげてきた人たちがいる。中心にいたのは、原爆で傷ついたピアノを修復した調律師と、その活動を支える市民だ。

 慰霊碑巡りの終点は、平和記念公園の原爆慰霊碑。被爆80年を前にした5日、あの日に閃光(せんこう)を浴びた鍵盤を、広島市出身のアーティストや高校生たちが弾いた。重厚ながら、どこか「きらきら」とした音色を響かせた。平和への願いを込めた「イマジン」の弾き語りもあった。「HIBAKU PIANO」というプレートも設置され、海外の観光客らも耳を傾けた。

 このピアノは1945年8月6日、爆心地から南へ約3キロの民家にあった。ガラスの破片でできたような小さな傷が無数に残る。

 2000年ごろ、広島市安佐南区の調律師、矢川光則さん(73)が修復した。矢川さんが修復・管理してきた被爆ピアノは計7台ある。01年からは、依頼があれば自ら大型トラックで運び、全国で演奏会を開いてきた。

 22年にロシアによるウクライナ侵攻が始まるなど、国際情勢は目まぐるしく変化している。「ひろしま被爆ピアノ友の会」の会長、手島秀昭さん(82)は、被爆80年を前に「節目を過ぎれば、反戦や反核の声が小さくなっていくのではないか」と危惧していた。そして「身近な慰霊碑を見直すことが、平和を祈る気持ちを呼び起こすのではないか」と考えた。矢川さんも同じことを考えていた。

 「最初はせいぜい50~60基だと思っていた」と手島さんは苦笑いする。調べると市が把握しているだけで碑は約200基もあった。手島さんは80代、矢川さんも70代。「今しかない」と覚悟を決めた。

 建立された背景はさまざま。犠牲になった生徒や職員のために学校や企業が建てた碑や、重傷を負った体で家に帰ろうとした途中で息絶えた人を追悼する碑がある。

 市の資料を手がかりに建立した団体を一つ一つ訪ねると、半分ほどは今も関係者が慰霊式を毎年開いていることが分かった。「その他の碑も記憶を継いでもらいたい」と考え、24年1月から、残り約100基を被爆ピアノと巡回することにした。

 下見に赴くと一部の碑は傾いたり草に覆われたりしていた。簡単な掃除をし、ピアノを置いて、黙とうをささげる。碑を身近に感じてもらうため、演奏者はできるだけ碑の関係者や地域の人から募った。

 活動を通じて記憶の風化も痛感した。「なぜ被爆ピアノで忠魂碑に慰霊をするのか」。たまたま演奏の様子を見た人から投げかけられた問いだ。

 広島では戦死した兵士と原爆犠牲者が共にまつられているケースがある。碑の由来を語れる人は既にいない。手島さんは「地域の人も何の碑なのか分からなくなっている。このままではどうにもならない」と危機感を抱く。矢川さんは「だからこそ、この活動が碑や核の問題を考えるきっかけになればいい」と力を込める。

 矢川さんは被爆2世。父は広島市役所付近で被爆して約1カ月間、生死をさまよった。手島さんは最近まで公言しなかったが、2歳の時に父を原爆で失っている。2人は「平和活動と家族のことは関係ない」と言い切る。

 矢川さんが活動を始めたきっかけは、98年に原爆で傷ついたピアノを被爆者団体から託されたことだった。手島さんも「たまたま」と言う。定年退職後に東京から広島に戻って地域活動をするうちに、被爆した桜やピアノに出会ったからだという。

 矢川さんは「ピアノは言葉を話さず、考えを押しつけない。でもこのピアノだから伝わる何かがある。活動は平和の種まきです」と繰り返してきた。

 まいた種をどう育てるのか。惨劇を生き延びたピアノは静かに私たちに問いかける。【山本尚美】

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