
今年は「戦後80年」に加えて「昭和100年」の節目にあたる。28日に開幕する都市対抗野球大会は96回を迎え、昭和の歴史と共に歩んできた。
1927(昭和2)年の第1回大会から振り返ると、大会創設の頃には意外な都市が強豪社会人チームを結成していた。
「福利厚生の充実が切実な課題」
今のようなプロ野球もなかった時代だった。
東京六大学野球や中等学校野球大会(現在の高校野球)で活躍した選手のプレーを再び見たいというファンの声に応える形で大会は始まった。都市に根付いた米大リーグの「フランチャイズ制」に着目し、都市の代表同士が争う大会形式が採用された。
日本列島だけではなく、日本人が移り住んでいた朝鮮半島や中国大陸にも参加を呼びかけ、第1回大会は神宮球場で開催された。計12チームが参加し、連日、超満員となったスタンドはファンで埋め尽くされた。
初代王者となったのが、中国の大連市・満州倶楽部だ。決勝では大阪市・全大阪を3―0で降して初代王者に輝いた。当時監督を務めたのが、野球を続けるため満州倶楽部の一員となり、後にプロ野球の初代パ・リーグ会長を務めた明治大出身の中沢不二雄氏だった。
第2回は大連市・大連実業団、第3回は再び大連市・満州倶楽部が制し、3年連続で優勝旗の「黒獅子旗」は海を越えた。長い歴史の中で連続優勝回数の最多は第21回大会(50年)から3連覇した大阪市・全鐘紡だが、都市ごとで見れば大連市は大阪市に並ぶ活躍だった。
なぜ、昭和初期に旧満州(現中国東北部)の大連市で野球が盛んだったのか。
専門家への取材や当時の資料をひもとくと、日本が旧満州へ勢力を拡大していった時代背景と密接な関係があった。
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