「器用ではなかった」 盟友・杉山隆一さんが語る釜本邦茂さん

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サッカー殿堂入りし笑顔を見せる(左から)杉山隆一さん、クラマーさん、釜本邦茂さん=東京都文京区で2005年5月27日午後5時3分、竹内幹撮影 拡大
サッカー殿堂入りし笑顔を見せる(左から)杉山隆一さん、クラマーさん、釜本邦茂さん=東京都文京区で2005年5月27日午後5時3分、竹内幹撮影

 10日に81歳で死去した釜本邦茂さんは現役時代、杉山隆一さん(84)との名コンビで当時のサッカー日本代表の攻撃をけん引した。杉山さんは「『釜本2世』と呼べる選手は、その後も現れていない。彼は『こうなれば絶対に点を決める』という明確な形を持っていた」と語る。

 男子代表の国際Aマッチで歴代最多の75得点という数字が象徴するように、釜本さんが抜きんでていたのが決定力の高さだった。特にゴール右にボールを持ち込み、斜めの角度から放つ「右45度」のシュートは代名詞となった。

 「日本サッカーの父」と呼ばれる故デットマール・クラマーさんらの指導の下、2人は攻撃でのコンビネーションを磨いた。

 スピードが武器の名ウインガーだった杉山さんはドリブルで相手守備をかわし、最前線の釜本さんにクロスやパスを供給する形を徹底的にたたき込まれた。一方で釜本さんは、杉山さんのスピードに合わせてゴール前に入る動きを磨き続けた。

 「僕らはそんなに器用な選手ではなかった。やってきたことも実は単純だった」

 1968年メキシコ・オリンピックの3位決定戦。銅メダルを懸けた開催国のメキシコとの大一番では、チームはこんな戦術で臨んだ。

 「杉山と釜本の2人で点を取りに行き、他の9人で守り抜く」

 前半に杉山さんとの連係で、釜本さんが2得点。そのリードを後半も守り抜き、日本が2―0で勝利。日本サッカー初の五輪メダルを手にした。

 「僕らは『(守備の場面も)ハーフラインまでしか戻らなくていい』との指示だったが、当時の映像を見直すと、必死になって自陣のペナルティーエリア近くまで戻っていた」 それほどの死闘だった。

 メキシコ五輪で7ゴールを挙げて得点王に輝いた盟友に対し、杉山さんは「なぜあの時、日本が銅メダルを取れたか。それは釜本がいたから」とたたえる。

 栄光を経ても、努力家で謙虚な姿勢は変わらなかった。自らが得点を重ねられた要因を聞かれると、杉山さんを含めた「アシストしてくれる人に恵まれたから」と語っていた。

 チームのトレーニングを終えた後も、約200本もミドルシュートの練習を繰り返す姿も目に焼き付いている。

 「体格に恵まれてスピードもあったけど、サッカーに対する意欲がすごかった。西ドイツへの留学経験があり、『(世界を見れば)上には上がいる』という経験をしてきたからだと思う」

 共に日本サッカーの歴史を切り開いてきた盟友に対し、杉山さんはこんな言葉を向けた。

 「お互いによく頑張ったなあ」【高野裕士】

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