「逃げるな、火を消せ」 国策が生んだ悲劇 空襲の中残った父は

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手押しポンプで消火作業をする下山手通5丁目町内会の人たち=神戸市で1945(昭和20)年3月17日
手押しポンプで消火作業をする下山手通5丁目町内会の人たち=神戸市で1945(昭和20)年3月17日

 父の命を奪ったのは、戦時下で民間人に義務付けられていたある「行動」だった。「あのとき、一緒に逃げていれば助かったのに」――。娘が長年心にしまい続けた無念は、80年たっても消えることはない。

 大阪市東淀川区の浦上幸子さん(88)は1945年3月の神戸空襲で、造船所の技師だった父を失った。当時は両親と妹2人の一家5人で、神戸市兵庫区の木造長屋の社宅で暮らしていた。

市井の人々が犠牲に

 45年3月17日未明、多数の米軍機が市街地を襲い、無差別に焼夷(しょうい)弾を投下した。父は母に子どもたちを連れて逃げるように言い、自身は消火のため家にとどまった。母は防火用水の水をかけた布団を浦上さんらにかぶせて走った。炎が通りの両側と背後から迫る中、4人は駅の地下施設にたどり着いた。

 社宅は全焼し、父は遺体で見つかった。社宅の消防組織には「空襲時には必ず一家に1人残って消火活動をする」という決まりがあった。浦上さんは「残った人たちは全員犠牲になった」と母に聞かされた。

「父が生きていれば……」

 その後、一家は…

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