
約束した取材の日時が分からなくなったその男性は、記者に確認の電話を入れた。
4歳の時に長崎で被爆した右近守さん(84)=佐賀県小城市=は、認知症のため時折昨日の記憶さえ曖昧になる。
それでも「あの日」の体験は忘れようがない。自分に言い聞かせるように語った。「忘れちゃいけない記憶を発信しなくては」
閃光と爆風
5歳上の兄、2歳上の姉がいる3人きょうだいの末っ子。佐賀出身の父儀作(ぎさく)さんは1944年に41歳で病死し、母カツさんは儀作さんが勤めていた鉄工所で働きながら、女手一つで子供たちを育てたという。
45年8月9日。長崎市内の神社できょうだい3人で遊んでいると、空襲警報が鳴った。防空壕(ごう)に避難したところで、異様な閃光(せんこう)を浴び、爆風で壕の奥まで飛ばされた。爆心地から約1・8キロの場所だった。
その後の記憶は断片的だ。
兄が残した手記によると、爆心地から約1キロの職場で被爆したカツさんとは翌日に合流できた。母子4人で長崎県諫早市に疎開した後、カツさんの実家がある鹿児島県薩摩川内市の甑(こしき)島を目指した。
兄が右近さんを、カツさんが姉をそれぞれ背負い、列車を乗り継いで鹿児島へ。カツさんが小さな漁船を借り、夜間に甑島に渡った。
孤児として…
移動を重ねる間にカツさんの体は弱っていった。
被爆の後に右近さんが記憶するのは、実家で蚊帳の中からカツさんが「守、守」と呼ぶ声だ。しかし「被爆の影響で髪の毛が抜けた母の顔が怖くてすぐ近寄ることができなかった」。
1カ月後の9月9日、カツさんは息を引き取った。37歳だった。
きょうだいは孤児になり…
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