太平洋戦争中に捕虜収容所があった岩手県釜石市で3日、「戦後80年 釜石と戦災~未来に伝えるために」と題した討論会が開かれた。戦争末期に捕虜生活を送った男性の孫らが登壇し、当時の苦境に思いをはせながら、平和な世界を願った。
捕虜収容所は戦時中、全国に約130カ所あり、米国や英国など日本と交戦した連合国の兵士らが移送された。釜石には釜石鉱山そばと釜石港近くに設置され、終戦時には計750人が収容されていた。鉱石の採掘や製鉄所などで労役に従事させられ、1945年8月に米英軍が釜石を砲撃した「艦砲射撃」では32人が犠牲になった。
収容所で書いた手紙は祖父の「希望」
戦後80年を機に、釜石市内であった戦争の歴史を継承しようと市が討論会を開催した。登壇者の一人として、オランダからエローイ・リンダイヤさん(60)が思いを語った。
エローイさんの祖父、エベルト・リンダイヤさん(1908~81年)はオランダ領東インド(現在のインドネシア)で日本軍の捕虜となった。終戦までの2年9カ月、釜石鉱山そばの収容所で電気関係の仕事や鉱山の病院で看護をさせられた。
エローイさんは壇上で収容中の祖父が家族に宛てた手紙形式で書いた日記に触れ「(家族と)音信不通の中、希望を持ち続けるための貴重な手段だった」と、当時の祖父の境遇に思いをはせた。「戦争犠牲者への追悼と戦火を交えた国同士の和解がずっと続きますように」と締めくくった。
記憶に残る「戦犯で収監された父」
釜石の2カ所の収容所の所長だった男性の孫で、高校生の頃から祖父の足跡をたどってきた米誌ニューズウィーク日本版記者の小暮聡子さん(44)も参加した。小暮さんは祖父の手記を釜石で展示するなど戦時中の記録の伝承に貢献しており「釜石の人が捕虜収容所を『釜石の記憶』に加えてくれたことに感謝したい」と述べた。
父親が捕虜収容所に勤務していた吉田武子さん(87)=宮城県気仙沼市=は、討論会の開催を知った家族に伴われて会場を訪れ、小暮さんと初めて言葉を交わした。
終戦時7歳だった吉田さんは「父が自宅に背の高い外国人を連れてきたことや、戦後戦犯として収監されたことを覚えている。小暮さんに会えてよかった」と語った。【奥田伸一】
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