緊迫のモールス信号、通信兵は自慢の長兄だった 親族が記録誌作成へ

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手紙や写真を広げ、記録誌の編集作業を進める(左から)宇城里美さん、中村澄子さん、辻麻由美さん=伊勢市有滝町で2025年8月7日、小澤由紀撮影 拡大
手紙や写真を広げ、記録誌の編集作業を進める(左から)宇城里美さん、中村澄子さん、辻麻由美さん=伊勢市有滝町で2025年8月7日、小澤由紀撮影

 81年前に西太平洋のトラック諸島(現在のチューク諸島)で戦死した伊勢出身の大木善一郎さんの記録を後世に残そうと、津市に住むめいの宇城里美さん(66)ら親族が記録誌の作成を進めている。残された手紙や写真、聞き伝わる思い出話を収録。大木さんの100回目の誕生日である9月24日の完成を目指している。

 大木さんは1925年、現在の三重県伊勢市有滝町に10人兄弟の長男として生まれた。成績優秀で愛知の私立中学に進学。戦争が激しさを増した41年、中退して海軍に入隊した。通信兵を志し、横須賀の通信学校で技術を習得。潜水艦「伊169号」に乗艦した。

 この艦については、73年1月の本紙朝刊に乗組員の最期の模様が詳細に記されている。遺体の収容が始まることを伝える記事だ。

 44年4月4日午前11時ごろ、停泊中に空襲警報が鳴り響き、直ちに潜水したが、機械室のわずかに開いていた通風筒から海水が流入。浮上できず乗務員らが閉じ込められた。

大木善一郎さん=親族提供 拡大
大木善一郎さん=親族提供

 ダイバーがハンマーで「全員脱出せよ」とモールス信号を送ったが、それはかなわなかった。艦内からは「陛下の御船を見捨てることはできない」「浮上させ、再起できるよう全力を上げて努力する」などとモールス信号で返事があった。

 こうしたやり取りは3日間続いたが、4日目の「疲労ひどし。脱出は……ムリ」の応答を最後に通信は途絶えた――とある。

 当時上陸していて無事だった同僚の中には、艦内でモールス信号を打ち続けていたのは通信兵だった大木さんに違いないと信じている人もいるという。

 こうした記録を次代につなぎたいとの思いで編集に励んでいるのは、宇城さんと大木さんの末妹の中村澄子さん(79)、そしてもう一人のめいである辻麻由美さん(76)。中村さんは終戦の4日後に生まれ、兄を知らない。また、辻さんは73年の政府による遺骨回収事業に祖父母(大木さんの両親)と参加した経験がある。

「伊169号」の最後を伝える毎日新聞1973年1月10日朝刊の記事 拡大
「伊169号」の最後を伝える毎日新聞1973年1月10日朝刊の記事

 3人の手元には、大木さんが家族へ宛てた手紙や写真が残されている。手紙はいずれも上手な字で両親や兄弟を思いやる内容だ。

 中村さんは「話は姉や両親からよく聞いた。自慢の兄やった」と振り返る。辻さんは「遺骨収集の時、海に向かって祖母が『善一郎』と叫んで号泣した姿が目に焼き付いている。悲しみしか生まない戦争は絶対にやめて」と声を強めた。

 宇城さんは「戦争は終わっても悲しみは終わらない。その思いを次代へつなげ、足元から平和への一歩を」と願っている。記録誌は大木さんの誕生日に開く法要で親族に披露する予定だ。【小澤由紀】

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