「ヒュー」空気切り裂く音 「飛び込め」叫ぶ兄 松山の街が燃えた日

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石手川に架かる立花橋付近より撮影した焼土と化した松山市の中心市街地。右奥の松山城城山の手前に、焼け残った愛媛県庁の建物が写る=同市提供
石手川に架かる立花橋付近より撮影した焼土と化した松山市の中心市街地。右奥の松山城城山の手前に、焼け残った愛媛県庁の建物が写る=同市提供

 終戦から80年目の夏。当時を知る人は減り、戦争の記憶が徐々に失われつつある中、四国の戦争にまつわる場所を記者が歩き、ゆかりの人たちを訪ねた。

251人死亡の松山大空襲

 「ウー」という低いサイレンが鳴り響いたのは、午後10時半を過ぎていたと記憶する。松山市の中山厚さん(92)は当時、旧制北予中学(現愛媛県立松山北高校)1年。布団に入ったところで、同市三番町の自宅には両親と兄妹がいた。1945年7月26日、「松山大空襲」の始まりだ。

 「本町の方が火事だぞ」。ほどなく外から声が聞こえ、慌てて家を飛び出すと、真っ赤に燃えさかる炎と、炎の中で右往左往する小さな人影が見えた。「えらいことになった」。すると東の空から爆音が聞こえ、低空飛行する米爆撃機B29が一直線に近づいてきた。

自作の絵を手に空襲の体験談を語る中山厚さん=松山市で2025年7月10日午前11時58分、狩野樹理撮影
自作の絵を手に空襲の体験談を語る中山厚さん=松山市で2025年7月10日午前11時58分、狩野樹理撮影

 戸が開いたままの玄関へ向けとっさに走り出すと、頭上から「ヒュー」と空気を切り裂く音がする。一緒に外に出ていた兄が叫んだ。「飛び込め」。家に入ると同時に「ダダダダーン」と音がした。

 父は近所へ見回りに出ていた。母が「お父さんが帰ってきたら後を追うから、すぐに逃げなさい」とせかし、きょうだい3人で西へ南へ無我夢中で逃げた。頭上を見上げると、編隊を組んだ「黒いもの」が通過していく。「白いの着とったら敵に見つかる」と、寝間着の色を気にする妹を気遣う余裕もない。

 街並みが途切れ振り返ると、急降下するカラスの大群に襲われるかのように、市街地に爆弾が降り注いでいた。直撃を避けてたどり着いた石手川の土手の上で再び振り返ると、街は煙で何も見えない。空には満月に近い月が浮かんでいた――。

 「松山市誌」(同市編さん)によると、27日未明にかけた米軍機の焼夷(しょうい)弾爆撃で251人が死亡、8人が行方不明になった。「『松山城』は残った 松山大空襲の記録」(松友正隆著)は、26日午後11時8分に「けたたましいサイレンが鳴りわたり」「米機の爆撃が始まった」と記す。「(爆撃は)市の西側から始まり、次第に中央部へ、更に東へと行われ」「2時間余り継続された」と記録。空襲による大火災は、日の出まで続いたという。

 米軍の作成資料を基に、愛媛県の空襲の被害状況を詳細に分析した書籍がある。今治明徳高校矢田分校(同県今治市。現FC今治高校里山校)の平和学習実行委員会が2005年に出版した「米軍資料から読み解く愛媛の空襲」。松山大空襲を行った米軍第20航空軍指令部の作戦任務報告書(1945年7月26~27日)も収録する。

愛媛県内最古の木造建築で国宝に指定されている大宝寺本堂の壁には、松山大空襲で投下された焼夷弾の破片が今も突き刺さったままだ=松山市で2025年7月16日午前9時58分、狩野樹理撮影
愛媛県内最古の木造建築で国宝に指定されている大宝寺本堂の壁には、松山大空襲で投下された焼夷弾の破片が今も突き刺さったままだ=松山市で2025年7月16日午前9時58分、狩野樹理撮影

 報告書は「精密爆撃には不都合な天候が続いているため、中堅的工業都市である松山、徳山、大牟田に対する夜間焼夷弾攻撃が計画」と記載。松山、徳山(山口県)、大牟田(福岡県)は「軍需産業上重要」と指摘する。松山は、旧日本海軍の鎮守府があった呉(広島県)から「真南に52・8キロ、四国の西海岸から8キロほど内陸に入ったところに位置し、軍事、鉄道の中心、農機具生産の中心として重要な都市」とある。

 報告書によると、松山大空襲に参加した120機超の米軍機は、マリアナ諸島の基地を26日午後4時5分から約1時間半かけて離陸。攻撃始点に定めた祝島(いわいしま)(山口県)から平郡島(へいぐんとう)(同)、興居島(ごごしま)(愛媛県)を経て松山市の三津浜を目印に飛び、爆撃中心点である「(松山)城跡のまわりを巡らす堀の南東角」を目指した。同11時8分から27日午前1時18分まで松山を攻撃。建物密集地域のうち73%を破壊したと報告する。

 松山市の中心部を襲う米軍機から逃げ惑い、石手川の土手にたどり着いた中山さんは、そのまま夜を明かした。白み始めた空の下に現れたのは、「全滅」した松山の市街地だった。夜が明け、きょうだい3人で道後温泉の方面へと歩き始め、27日午後2時ごろに両親と再会。家族5人で抱き合い、涙を流した。

石手川(中央)の周辺は今、市民の憩いの場となっている。両岸に緑地が広がり、春になると桜が咲き誇る=松山市で2025年8月13日午前10時9分、狩野樹理撮影
石手川(中央)の周辺は今、市民の憩いの場となっている。両岸に緑地が広がり、春になると桜が咲き誇る=松山市で2025年8月13日午前10時9分、狩野樹理撮影

 中山さんは2010年ごろ、兄淳(きよし)さんに誘われ、松山大空襲を知らない若い世代に自身の体験を伝える語り部活動を始めた。自作の絵を見せ自らの空襲体験を語る。淳さんは21年に91歳で亡くなり、今は一人で活動する。

 「市井に生きる人々に、戦争がいかに悲惨な状況を強いるのか。当たり前と思っている『平和』が、いかにかけがえのないものなのか。子どもたちに伝えるため、もうちょっと頑張りたい」。そう語る中山さんは今年で92歳。語り部活動は今後も続けていくという。

 中山さんへの取材後、記者は石手川の土手に立った。80年前、空襲から逃れた中山さんが一夜を明かした場所だ。散策を楽しむ市民が行き交い、かつての光景は想像できない。

 石手川の土手沿いは今、松山市民の憩いの場で、春には桜が咲き誇る。川沿いに広がる平和な景色は、不条理な戦争で散った多くの命の犠牲の上にあると思うと、やるせない気分が募った。

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