手術をして高校野球を諦めるか、それとも最後の夏に向けて回復を信じるか。
17歳の時に究極の選択を迫られた東洋大姫路の阪下漣投手(3年)が今夏、甲子園のマウンドに帰ってきた。
プロ注目右腕の復活の裏には、苦悩の日々があった。
「鳥肌が立った」
15日にあった全国高校野球選手権大会2回戦の花巻東(岩手)戦。阪下投手は九回無死二塁で登板した。リードは4点あったが、終盤に追い上げられ、流れは相手に傾きかけていた。
再び立った甲子園のマウンドで、阪下投手は足が震え、苦い記憶を思い出したという。
今春の選抜大会1回戦の壱岐(長崎)戦。先発したが、先頭から連続四球を出すなどし、いきなり2失点した。
右肘に違和感を覚え、一回限りで降板した。その後、右肘靱帯(じんたい)損傷の診断を受け、長期離脱を余儀なくされた。それが苦い記憶だ。
だが、再び戻ったマウンドで、「ピッチャー、阪下くん」のアナウンスが告げられると、スタンドから拍手が送られた。
その観客の温かい反応で、阪下投手は我に返った。
「鳥肌が立った。これだけのみなさんが待っていてくれた。心の準備はできていなかったが、体の準備はできていた」。目の前の打者に集中した。
球はやや上ずり、捕手の要求通りに制御できなかったが、躍動感あるフォームで気迫を前面に出した。
最初の打者をスライダーで見逃し三振、次打者を高めの直球で空振り三振、最後はこの日最速の143キロの直球で遊ゴロに仕留め、11球で締めた。
本来のコントロールの良さを考えれば、完全復活とまでは言い切れない。それでも、威力のある球でチームのピンチを救った。復帰登板は上々だった。
「何とか抑えられてよかった」
試合後、阪下投手はホッとした表情を見せた。
順風満帆から暗転
阪下投手は下級生の時からエースナンバーを託され、世代屈指の本格派として注目を集めてきた。
身長181センチ、体重86キロの恵まれた体から、最速147キロを誇った。それ以上の持ち味は、多彩な球種で四隅を突く制球力だ。
「コントロールにはあまり困ったことがない」という優れた指先の感覚の持ち主。昨秋の近畿大会は27回余りを投げて1失点に抑え、チームを17年ぶりの近畿王者に導いた。
順風満帆の高校野球生活だったが、選抜大会後に究極の選択を迫られた。
右肘にメスを入れるか、入れないかの決断だ。
将来を見据えて手術を選べば、長期間のリハビリを要する。それは、高校野球生活の終わりを意味する。
一方、保存療法を選んだとしても、医師からは「完全に治ることはない。夏に投げられるかも微妙だ」と伝えられたという。
阪下投手の心は揺れ動いた。プロ野球選手を志しており、周囲からは手術をした方がいいという声も多く聞こえた。
だが、我がことのように励ましてくれる仲間を見て、覚悟を決めたという。
「自分の中ではすごく苦しくて、高校野球を諦めようという気持ちにもなった。すごく悩ましいところがあったが、みんなの姿を見てもう一度、高校野球を諦めずにやりたいと思った。高校野球は人生一度きり。最後の夏だし、悔いを残して終わるのは嫌だった。そこは思い切って最後までやると決めた」
「みんなのために投げたい」
6週間のノースローを経て、少しずつ強度を上げていった。
今夏の兵庫大会は、初戦の時点でブルペン投球を再開したばかりで、登板機会はなかった。仲間の活躍でたどり着いた夏の甲子園の開幕時点でも、シート打撃に4度登板しただけだった。
痛みは消えたものの、なかなか状態が上がらず、開幕前には、もどかしい胸中を明かしていた。
「自分の中では、もうちょっとできるというのはあるが……」
それでも、強い決意をにじませていた。
「戻ってこないというのが現状だが、最後の夏なのでビビっていたら、悔いを残して終わる。思い切って腕を振りたい」
この先長くなるかもしれない野球人生を考えれば、どの選択が正解だったかはわからない。それは本人ももちろん心得ている。
しかし、仲間と今、かけがえのない時間を共有することを優先した。
復帰登板を終えると、穏やかな表情で言い切った。
「外れた3年生の分までやらないと、自分がメンバーに入っている意味がない。みんなのために投げたい気持ちが強かった。心が折れそうになっても頑張れた」
東洋大姫路は17日、14年ぶりの8強入りを懸けて、3回戦の西日本短大付(福岡)戦に臨む。
阪下投手は感謝を胸に、誰よりも長い夏にするつもりだ。【長宗拓弥】
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