
いつも二人は一緒だった――。
日中戦争や太平洋戦争で戦死した画学生の作品を収蔵する長野県上田市の慰霊美術館「無言館」には、肩を並べるように展示された二つの絵がある。同郷の親友で、ともに戦場で散った若者たちの絵だ。
描いたのは原田新と久保克彦という無名の画学生。山口県徳山市(現周南市)で育った小学校からの同級生で、ともに東京美術学校(現東京芸術大)を卒業後に出征した。
原田が描いた着物姿の女性の人物画からはしとやかさが、久保が習作として残した静物画からは静謐(せいひつ)さが漂う。
展示作品の間に説明書きがある。「原田には同じ美校に通う無二の親友久保がいて、いつも二人はいっしょだった」
「ものは言わなくてもいい、話さなくても通じているような静けさの中でのお付き合いだったようです。生きていれば久保さんとまた絵を描きたかったでしょう」。原田新の末弟、茂さん(87)は話す。
原田は1819年創業の造り酒屋「はつもみぢ」の長男として生まれた。美術の道へ進んだのは中学生の時。病気療養中に母・静子が絵を描くのを勧めたという。
地元の画家の元へ一緒に通うことになったのが、既に仲が良かった久保だった。久保は書店を営む家で育ち、幼い頃から雑誌の写真を描き写し、絵を描くのが好きだった。
二人は中学卒業後、ともに東京美術学校を受験。久保は1年浪人してしまうが、美術学校での生活を通してさらに親交を深めていく。
「帰省時には実家の2階に作ったアトリエに籠もってレコードを聴いたりして、静かに時を過ごしたそうです」。茂さんは18歳離れた兄の記憶がほとんどないが、家族の話や残された手紙から二人の絆を感じている。

原田が出征後に母親宛てに送った手紙には、青春時代を懐かしむ一節がある。
<かつて久保と東京の郊外の森の中のお茶屋で偶然にもベートーベンの「第六」を聞き、夜おそく迄(まで)聞き入ってゐた日の美しかった秋の光を思ひ出さす様な日があります。久保にレコードを聞いてもらった事は自分は何よりも喜びといたします。(中略)彼の「つぼ」と彼及び自分の聞いたレコードは、折にふれて鑑賞して戴(いただ)きたくあります>
一方で、久保が東京の姉に書いた手紙を見ると、もう少しリアルな関係性が垣間見える。
<銘酒初紅葉本舗原田酒場を訪れて、酒倉のマン中にあぐらをかき、原田新と共にマチスを論じバッハを論じ、鯨飲二升>
これは久保のおい、木村亨さん(88)がまとめた「久保克彦遺作画集」にある手紙の一文だ。
木村さんは「本来はシャイで自分の殻に閉じこもる性格の久保克彦が、一部の人には心を開き、よく話したそうです。原田新さんも数少ない一人だったのでしょう」と話す。
故郷で、東京で、美術の道に没頭しながら友情を深めた二人。しかし、彼らが画家としての道を歩むことはなかった。【猪飼健史】
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筆を置き戦地へ 戦時下の画学生が残したもの
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