血痕や銃弾の穴 19歳で戦死、遺族に返還された日章旗が語るもの

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佐藤清さんの墓前で日章旗を広げる稔さん、美惠子さん夫妻と小倉さん(右から)=栃木市西方町で2025年8月7日午前11時1分、太田穣撮影
佐藤清さんの墓前で日章旗を広げる稔さん、美惠子さん夫妻と小倉さん(右から)=栃木市西方町で2025年8月7日午前11時1分、太田穣撮影

 太平洋戦争末期の学童集団疎開に詳しい旧都賀町(現栃木市)の元教育長、小倉久吾さん(88)=栃木市片柳町=は講演の際、古い日章旗をパネルに掲示する。旗には、茶褐色の染みに銃弾の貫通孔らしき穴があった。小倉さんは「無謀な戦いを強いられ、若い命が散った。戦争の実相を物語る証拠だ」と語る。それは19歳で戦死した若者の遺品だった。

 日章旗の持ち主は、旧西方町(同)金崎出身の佐藤清さん。姪(めい)の美惠子さん(83)によると、鹿沼農商学校(現鹿沼商工高)を出て、鹿沼税務署に勤めていた。1943年4月に応召。陸軍33師団歩兵第214連隊に配属された。44年3月7日、「最も無謀」とされるインパール作戦の開始前日、最前線だったビルマ(現ミャンマー)山岳地帯のティディム周辺で戦死した。

 清さんは2人姉弟。姉のイチさんは南方戦線で夫を亡くし、娘の美惠子さんを連れて川崎市から西方町の実家に戻り、両親と暮らしていた。姉弟の両親が亡くなった後の79年2月、清さんの農商学校時代の同級生が突然訪ねてきた。

出征前に日章旗を手に家族と一緒に写真に納まる佐藤清さん。後列の女性がイチさんで抱かれているのが惠美子さん=惠美子さん提供
出征前に日章旗を手に家族と一緒に写真に納まる佐藤清さん。後列の女性がイチさんで抱かれているのが惠美子さん=惠美子さん提供

 「戦場から日章旗を持ち帰った英軍将校の家族が返還したいという話だった」と美惠子さんの夫で元同町職員、稔さん(82)が振り返る。家族はオーストラリア在住で、国際NGOの関係者に旗を託し、日本の持ち主を探していた。寄せ書きにあった「鹿沼税務署長」の署名を手掛かりに、清さんにたどり着き、同級生に連絡があったのだ。間もなくNGOの日本協会代表らが訪れ、日章旗をイチさんに手渡した。

 縦約70センチ、横約1メートル。「武運長久」と大書され、日の丸の周囲に上司だった税務署長など26人が記名していた。2カ所に小さな穴が開き、左側の穴の近くには血液なのか、茶褐色の染みが残っていた。

 「母は感無量のようだった」と美惠子さん。「お墓は立派だが、遺骨も遺品もなかった。私自身は血や弾の痕が残る日章旗を見て、叔父が本当に戦死したのだと感じた」と続けた。

 稔さんから事情を聞いた小倉さんも長兄・一英さんをインパール作戦で亡くしていた。清さんと同期入隊で同じ214連隊所属。作戦突入直後の3月16日、ティディムから東へ約350キロ離れた拠点都市・マンダレーで戦死した。清さんより1歳上の20歳だった。

 「日章旗を肩からたすき掛けした兄の姿を覚えている。武運長久を祈ったが、兄の軍隊生活は11カ月で終わってしまった。兄や清さんばかりではない。214連隊の生還者がまとめた戦記の巻末には中隊別に戦死者を列挙しているが、同じ日に同じ場所で亡くなった方々の名前がずらっと並んでいる」と小倉さんは指摘する。

パネルに日章旗を掲げながら講演する小倉さん=栃木市旭町の栃木文化会館で2025年7月10日、太田穣撮影
パネルに日章旗を掲げながら講演する小倉さん=栃木市旭町の栃木文化会館で2025年7月10日、太田穣撮影

 学校や公民館などから、学童疎開など戦時教育の講義や講演を依頼される機会が多い小倉さんは、10年ほど前から日章旗を借りて受講者に紹介するようになった。

 「清さんが身につけていた日章旗は、戦争の悲惨さを雄弁に語っている。一方で、かつての敵兵の家族を探し出し、返してくれたエピソードを踏まえると平和を象徴しているようにも思える。戦争と平和を考える教材として使わせてもらっている」と話した。【太田穣】

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