副葬されていた青銅鏡3枚が古墳築造の約400~100年前に制作された中国鏡と分かった奈良市の富雄丸山(とみおまるやま)古墳(4世紀後半、直径109メートル)。3銅鏡を贈与したとみられるヤマト王権との関係の強さがうかがえるが、肝心の被葬者の人物像は謎が深まるばかりだ。県立橿原考古学研究所(橿考研)と奈良市教委は、3銅鏡を8月1日から橿原市の橿考研付属博物館で初公開する。
富雄丸山古墳が築造された4世紀後半、ヤマト王権が王墓・巨大前方後円墳を築造する場は奈良盆地南東から北部の佐紀古墳群(奈良市)に移動した。富雄丸山古墳とは約5キロしか離れていない。このため、3銅鏡は同時代に佐紀古墳群にあった王権から贈与されたと考えるのが自然だ。
ところが3銅鏡のうち「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」は富雄丸山古墳から約20キロ南東にあり、3世紀末に築造された桜井茶臼山古墳(桜井市)の出土品と兄弟鏡と判明した。富雄丸山古墳の勢力が直接、桜井茶臼山古墳の大王から鏡を授与されたとすれば、約100年間保有した後、子孫が副葬したことになる。異例の対応と言える。
岡林孝作・橿考研学術アドバイザーは「制作年代が違う上質な3銅鏡をそろって副葬しており、王権に重視された人物が受け取ったとしか考えられない」と断言する。一方で、富雄丸山古墳は円墳で、ヤマト王権の墓の形の前方後円墳とはかけ離れている。副葬するまで約100年かかった点からは、富雄丸山古墳の被葬者の先祖は王権と微妙な間柄だった可能性もある。江戸時代の幕府と有力外様大名のような緊張関係も想像される。
3銅鏡公開は8月17日まで。同4、12日休館。問い合わせは橿考研付属博物館(0744・24・1185)。
3銅鏡の制作時期
陳氏作六神三獣鏡(三角縁神獣鏡)=魏代(3世紀中ごろ)▽虺龍文鏡=前漢代(紀元前1世紀末~後1世紀初め)▽画像鏡=後漢代(2世紀末~3世紀前半)。【皆木成実】
Comments