
広島の原爆投下で被爆し、その後は被爆者運動と原水爆禁止運動を先導した哲学者、森滝市郎さん(1994年1月、92歳で死去)はかつて、広島高等師範学校(今の広島大)の教授だった。
45年8月8日は教え子の学生たちに連れられて、いったん避難した宮島(広島県廿日市(はつかいち)市)から広島市内の広島赤十字病院(中区)に向かった。
爆風で飛ばされたガラス片によって、右目を傷つけられたためだ。
<苦痛をしのびて左眼(ひだりめ)を開いてべつけんするに さんたんたる焼野原なり>
森滝さんの日記「さいやく記」に、この日の出来事としてそうつづられていた。
<主な内容>
・目を指でこじ開けて見た地獄
・所在不明だった日記類
・「座っとっちゃ 止めらりゃあすまいでえ」
・約30年ぶりの「再会」
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爆風で飛散したガラス片で失明 反核の哲学者が便箋に記した8月6日
右目だけでなく、左目も交感性眼炎の恐れがあり、失明する可能性があった。激痛で開くことができない左目を「指でこじ開けて」被爆地を心に刻んだという。
「その日初めて、広島原爆の本当の地獄をこの左目で見ましたよ」
かつて、記者(高尾)が取材した時、そんな話を聞いた。
病院に着いた森滝さんは地下室や庭で横になり、うめき苦しむ人々、既に死亡している多くの犠牲者の中に身を置いた。その体験が「8・6」の原点となった。
<作業の為(ため)、県廳附近(けんちょうふきん)出勤整列中の男女中等学生数千名がぎせいとなりしは、最もひさんなり>
<道々×氏(×は実際の学生の名字)、一面の焼跡及び路傍の死々累々たるを説明す。臭気たへ(え)がたきものあり。明治橋のたもとに死体約三十ばかり並びて日赤に至る。正門より入るに負傷者、ヒン死者むらがりて呻吟(しんぎん)の声ものすごし――>
同僚や教え子にも犠牲者が出ていた。
終戦の日の記述も
さいやく記は、自身が収集した情報も踏まえつづっている。
8月6日から14日までは口述筆記が続く。
鉛筆や万年筆などの文具、筆跡もさまざまだが、教え子たちも貴重な記録になると察したのだろう。
丁寧な筆致のもの、言葉を聞き漏らさないように走り書きで記したものもあり、様子が伝わってくる。
15日~9月9日は、わずかに回復した左目で森滝さん自身が筆で記した、きっちりとした文字が並ぶ。
8月15日はこんな記述だった。
<終戰(しゅうせん)の大詔渙発(たいしょうかんぱつ)さる。正午ラヂオにて玉音放送さる、一同泣く。午後二時学生を集め大みことのりのまにゝ(まに)行くべきことを訓ふ(おしう)>
20日には実家のある君田村(現在の三次(みよし)市)に移り、家族と再会。<一切より救われし感あり>とある。
所在不明だった日記類
翌9月の9日に吉舎(きさ)町(同)の眼科に入院した。
この間のさいやく記の記述はまとめて振り返っており、<原子爆彈(ばくだん)病にて死に行く人續々(ぞくぞく)出づ>などと書かれた文章もあった。
森滝さんの次女、春子さん(86)は「父の日記類のうち、戦時中に書かれたものや『さいやく記』などは父の死後、所在が分からなくなっていた」と話す。
それが見つかったのは、2024年の年末だった。
森滝さんの自筆原稿や手紙などの資料が広島大文書館に寄贈され、そこ…
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