爆風で飛散したガラス片で失明 反核の哲学者が便箋に記した8月6日

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森滝市郎さんが原爆投下時まで書いていた学用ノートの日記。爆風で飛び散ったインクの跡が残っている=広島市で2025年6月10日午後4時18分、佐藤賢二郎撮影
森滝市郎さんが原爆投下時まで書いていた学用ノートの日記。爆風で飛び散ったインクの跡が残っている=広島市で2025年6月10日午後4時18分、佐藤賢二郎撮影

 その日記は、三菱のスリーダイヤのマークが入った、A4判の社用便箋20枚につづられていた。

 こよりでとじられた表紙はうっすらと茶色に変色し、真ん中には、縦書きでタイトルが記されていた。「さいやく記」

 学用ノートに記された別の日記帳もある。震える手で一枚一枚ぺージをめくると、まだら模様に飛び散ったインクが染み込んでいた。

 ページに食い込んだり、突き破ったりしたガラス片の痕跡もある。

 この2冊は、一切の核を拒否する「核絶対否定」の姿勢を貫き、被爆者運動を引っ張った哲学者、森滝市郎さん(1994年1月、92歳で死去)のもの。原子爆弾が広島に投下された45年8月6日前後の出来事が記されている。

 <主な内容>
 ・前日のこと、書いた数分後に…
 ・6日から始まる口述筆記
 ・「道々死体倒れたるあり」
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 記者(高尾)は今年6月、広島市内にある森滝さんの自宅の書斎だった居間で、さいやく記や学用ノートの日記帳などと「対面」した。学用ノートに跡を残したインクやガラス片は、爆風で飛び散ったものだ。

 80年前の戦時中、広島高等師範学校(今の広島大)の教授だった森滝さんは、広島市江波(えば)町(現在の中区)にあった三菱重工・広島造船所に動員された理科系の学生を引率していた。

 記者はさいやく記などの存在を知っていたが、実物に接するのは初めてだ。そこからは、生々しい被爆直後の様子が伝わってきた。

 森滝さんは終戦間際の45年4月から、造船所が学生の宿泊所として用意した宮島(広島県廿日市(はつかいち)市)の旅館を利用していた。学生たちと船で15キロほど北東の造船所へと通った。

前日のこと、書いた数分後に…

 8月6日の朝も学生らと造船所にいた。

 当時、日記を習慣としており、前日の出来事を翌朝、「學用(がくよう)ノート統制株式会社」発行のノートに書き留めていた。後に森滝さんが書いた説明書きには、こう記載されていた。

 <八月六日 造船所教官室の机上にこの日記帳(学用ノート)とり出して置きし直後 原子爆彈(だん) 机上のインク壺(つぼ)よりインクとびちり、又窓硝子(がらす)の破片 帳面の所々につきさゝ(さ)りてあり、その一片 尚(なお) 此(こ)の中に残り居れり>

 <きびしき暑さなり>で終わる学用ノートの8月5日のページには、<竹槍(たけやり)五百本作製>とも書かれ、戦時下を色濃く伝えている。

 森滝さんは生涯、教育者として戦争に加担した誤りを悔いたという。

 翌6日の朝、造船所で朝礼を終えた。

 「学用ノートに5日の出来事を書き終えたのは、原爆が落とされる3分前か、5分前だったですよ」

 記者のかつての取材にそう語っていた。

 午前8時15分に突然、閃光(せんこう)が走り、爆風に襲われた。その時から世は一変した。

6日から始まる口述筆記

 造船所は爆心から約4キロの地点だった。森滝さんは被爆して、ガラス片を顔中に浴び、その一つが右目の真ん中に突き刺さって失明するなどした。

 さいやく記は、この日から始まる。教え子たちの助けを得て口述筆記で書き残した。

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