玉音放送の半日前に 熊谷空襲慰霊の女神像 50年祈り伝え続け

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女神像を清掃する原口明久さん(左)、木村恵一さん(右)ら=埼玉県熊谷市内で2025年8月4日午前11時51分、隈元浩彦撮影 拡大
女神像を清掃する原口明久さん(左)、木村恵一さん(右)ら=埼玉県熊谷市内で2025年8月4日午前11時51分、隈元浩彦撮影

 熊谷空襲犠牲者の慰霊と平和の願いを込めて、埼玉県熊谷市星川に建立された「戦災者慰霊之女神像」が今年、建立50年の節目を迎える。4日には市民らが清掃活動を行い、戦禍の記憶を胸に、銀色の体を静かに磨いた。作者の北村西望は素材に、屋外展示の彫刻としては異例の高純度アルミニウムを選んだ。半世紀を経ても柔らかな輝きをたたえ、その「祈り」を今に伝えている。【隈元浩彦】

 敗戦の玉音放送が流れるわずか半日前の1945年8月14日深夜から翌未明にかけての米軍機による無差別爆撃で266人(公称)の命が奪われた。女神像は最も被害がひどかった星川西端、旧墨江町の星川「いこいの広場」に立つ。

 この日、清掃活動に参加したのは、姉を亡くし、とうろう流し実行委員会副会長を務める原口明久さん(75)ら地元の有志。水を掛け丁寧に汚れを落としていった。「女神像の建立は旧墨江町挙げての大事業だったと聞いています」

 戦後30年を翌年に控えた74年、慰霊碑建立の機運が遺族の間で高まり、「熊谷市戦災慰霊碑建立奉賛会」が発足。作者には「長崎平和祈念像」の制作で知られる彫刻家・北村西望(1884~1987)を迎えた。特筆すべきは制作費750万円が1302の個人・団体の寄付によって賄われたことだ。自営業だった原口さんの父親も15万円を寄せていた。

女神像の台座の銘板には作者名や像の材質が刻まれている=埼玉県熊谷市内で2025年8月4日午前11時17分、隈元浩彦撮影 拡大
女神像の台座の銘板には作者名や像の材質が刻まれている=埼玉県熊谷市内で2025年8月4日午前11時17分、隈元浩彦撮影

 完成した女神像は高さ1・7メートルと、ほぼ等身大。高さ1メートルの台座に立つ。75年8月16日に除幕式が行われた。左手を地に差し伸べ、右手で拝礼のポーズをとる写実的な女神像は、西望にとって晩年の代表作の一つである。

 女神像の素材は高純度アルミニウム。腐食に強く、光を反射する美しさがある一方で、柔らかく傷つきやすいため、通常は恒久設置には向かないとされ、青銅、あるいはジュラルミンなどのアルミ合金が使われることが多い。高純度アルミニウムの使用は西望の強い要望だったとされる。

 西望がその理由について語った記録はないが、空襲で祖父を亡くした同実行委会長の藤間憲一さん(79)は「ジュラルミンは軍用機の基本素材。熊谷を襲った米軍の爆撃機B29は『ジュラルミンの塊』とさえ呼ばれた。熊谷を焼いた金属は使うまいという決意があったのではないか」と、思いを巡らせる。

 その藤間さんの目には、55年に西望が制作した長崎平和祈念像との共通性も感じられるという。

 「長崎の祈念像は天を指す右手で核の脅威を、水平に伸ばした左手で平和への希求を力強く示している。熊谷の女神像もまた、右手で鎮魂、左手は平和を表しているようです。どちらも写実と象徴を融合させ、『平和は形にできる』という西望の信念を造形化したのではないかと」。そして、続けた。「長崎では空に語りかけ、熊谷では地に寄り添う。二つの像に込めたメッセージは同じです」

 清掃活動の参加者には、近所の木村恵一さん(76)の姿もあった。「建立した先人の心を少しでも引き継ぎ、次の世代に託していければ」。半世紀を経て変わらぬ輝きは、こうした地域の人たちの手で守られてきた。

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