
「おいば(ぼくを)殺して」。4歳8カ月で長崎で被爆し、あまりのやけどの痛みにそう泣き叫んだという男性が昨年、食道がんのため83歳で亡くなりました。被爆者は高齢化し、その人数はどんどん減っています。長崎支局で被爆証言を記録する取材に取り組んできた尾形有菜記者は、「被爆者がいなくなる日」を見据え、残された証言を基に、核兵器の使用を許さない世界を保ち続ける責任は「私たち一人一人にある」と訴えます。
核使用食い止めてきた「証言」の力
米軍が2発目の原爆を長崎に投下して9日で80年となった。この間、核兵器が実戦で使われることはなかった。私は長崎支局で約1年半取材して、3回目の使用を食い止めた要因の一つは、我が身を焼かれ、肉親を一瞬にして殺された被爆者たちが非道さを語ってきた「証言」の力だと感じる。だが、平均年齢86歳を超えた被爆者にその役割を求めるのは、もう限界に近い。世界で軍事衝突が続き、核兵器が使用されるリスクが高まる今、「二度と繰り返すな」という叫びを私たちが、被爆者に代わって広げ続ける必要に迫られている。
2024年4月に長崎支局に赴任した私は、被爆者団体「長崎原爆被災者協議会」(被災協)が被爆80年に向け、被爆者の証言動画を撮影してユーチューブで公開する取り組みを取材してきた。平均約2時間に及ぶ撮影に同席しながら話を聴かせてもらい、その内容を毎日新聞の長崎県版とウェブサイトで「証言・被爆80年」として連載している。県版での連載は同僚の担当分も含め、44回になった。
私はこれまで運動部での勤務が長く、被爆者を直接取材するのは初めてだった。24年5月、赴任して最初に話を聴いたのは小峰秀孝さん(当時83歳)=長崎市=だった。
人生につきまとった被爆の「傷」
小峰さんは4歳8カ月の時に爆心地から約1・5キロで被爆した。ビワの木に登ってセミを捕ろうとしていた時だった。全身に負った大やけどの痛みで、「おいば殺して」と泣き叫んだ。命は取り留めたが、…
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