9日午後。長崎の爆心地から12キロ以内で原爆に遭いながら国が指定した援護区域の外にいたとして被爆者と認められていない「被爆体験者」の岩永千代子さん(89)=長崎市=は、市内のホテルで、石破茂首相が被爆者団体代表から要望を聞く場に車椅子に乗って参加した。昨年は岸田文雄首相(当時)に対して発言することが許された。だが今年は30分間黙ってやりとりを聞くだけ。「苦しみながら亡くなっていった人たちの心境を石破さんに直接聞いてもらい、『自分ごと』として受け止めてほしかったが、かなわず悲しい」。面会終了後の取材で涙ながらに語った。
国は2002年、援護区域の外で原爆に遭った住民を「原爆放射線による健康被害は認められない」として「被爆体験者」と名付け、精神疾患などに限定して医療費の助成を開始した。岩永さんたちは07年、「被爆体験者は放射性微粒子で健康被害を受けた可能性が否定できず被爆者援護法上の『被爆者』に該当する」として、被爆者健康手帳の交付を求める訴訟を起こした。原告約550人の敗訴が19年までに確定し、再提訴した43人による控訴審が福岡高裁で続いている。
だが、原告のほとんどが病気と高齢で外出もままならず、岩永さんも足腰が弱り、手のしびれや難聴もある。控訴審が開かれる福岡高裁に行けず、長崎市からオンラインで審理に参加しているが、そこに来られる人もごくわずかだ。
岩永さんは首相への「直訴」に解決の望みを託し、今年5月には「5分でいいから石破首相と面会したい」と訴える手紙を長崎市の鈴木史朗市長と長崎県の大石賢吾知事に送り、市と県が6月に厚生労働省に渡すなど働き掛けをしてきた。
岩永さんは、石破首相に直接訴えるための原稿も準備した。パソコンもスマートフォンも使えない。思いを原稿用紙に書いてはファクスで支援者に送って意見を聞き、何度も書き直した。
石破首相には、訴訟の元原告で、胃がんに侵され「病気は原爆のせい」と言い残し14年に78歳で亡くなった谷口久子さんのことを伝えたかった。9歳の時に爆心地の北東約10キロの旧喜々津村(現長崎県諫早市)で原爆に遭い、「ぼた雪のような灰をかぶり、黒い雨を浴びて肌着が真っ黒になった」と証言していた。
爆心地の東約9キロの旧古賀村(現長崎市)にいた元原告の松田忠徳さんからは、白血病で16年に75歳で亡くなる間際、病室に呼ばれ「頑張ってください」と手を握って思いを託されていた。岩永さんは「これが実態です。放射性微粒子で内部被ばくした被爆者だと認めてほしい」と記した。
国は、要望の場への岩永さんの参加の可否をギリギリまで判断せず、長崎市によると、参加が正式に決まったのは前日の8日で、発言の時間は与えられなかった。市の担当者は取材に「被爆体験者の発言機会を設けるために調整する時間がなかった」と説明した。
面会で被爆者団体を代表して要望書の趣旨を説明した長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長(85)は「被爆体験者が亡くなってしまった後に結論を出しても何の意味もない。早急に政府の決断を」と発言を手短にまとめた。何とか岩永さんの発言時間を確保したいとの思いだった。だがその後、石破首相らの発言が続き、時間切れになった。
面会では、過去の訴訟で岩永さんらが敗訴していることや再提訴訴訟が続いていることを理由に、福岡資麿厚労相が「被爆者として認定することは困難」と回答。精神疾患などに限定していた対象をほとんどの病気に拡充した医療費助成(24年12月開始)を「確実に実施していく」などと述べるにとどまった。
「私たちの闘いはお金が目的ではない」と岩永さんは言い切る。国は広島原爆の「黒い雨」体験者を被爆者と認めながら、同様に放射性降下物が降り注いだ地域にいたと訴える長崎の被爆体験者の証言を「信用できない」と切り捨て、被爆者と認めることを拒み続けている。
核兵器は熱線、爆風、初期放射線で人間を殺傷するだけではなく、広範囲に影響を及ぼす。岩永さんを突き動かすのは、広範囲に拡散した放射性微粒子の被害が「なかったこと」にされると、また核兵器が使われかねないという危機感だ。
平和祈念式典のあいさつで石破首相は「被爆の実相の正確な理解を一層促進していく」と述べた。
被爆地で、住民は「病気は放射能のせいでは」と苦しみ続け、80年が過ぎても被害の立証を強いられている。「そんな愚かな歴史は繰り返してはならない」。その思いを岩永さんは自分の口で伝えたかった。【樋口岳大、尾形有菜】
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