「鉄腕アトム」「サザエさん」「Dr・スランプ アラレちゃん」――。数多くのテレビアニメ制作に携わってきた脚本家で作家の辻真先さん(93)にとって、生まれ育った名古屋で経験した戦争は「大人への不信感」を植え付けさせる出来事だった。その苦い記憶は今も、生き方や作品作りに大きな影響を与えている。【梶原遊】
名古屋市栄区栄町(現在の中区栄)で生まれ育った辻さん。中学1年から隣町の軍需工場で働き始め、学校に通う傍ら、戦闘機作りに励む日々を送った。
当時は戦争の真っただ中。戦場で役立つ英語や数学の教師は兵役に召集された。専門外の教師が授業を続けたが、生徒が疑問を投げかけても「分からぬ」と仏頂面。幼いながらに大人の理不尽さを感じた。
「学校といっても机は2人で一つ。鉛筆もろくにない。工場で働いていた方が楽しいわけよ」
その頃の辻さんにとって、身勝手な教師と顔を合わせるよりも、工場で過ごす時間の方が心地よかった。
1944年の東南海地震の影響で、働いていた工場は三重県に拠点を移すことに。「僕らが作った飛行機、ちゃんと飛ぶかなあ」などと言いながら、仲間と見送った。
やがて、通っていた愛知一中(現・愛知県立旭丘高校)も軍需工場となり、2学年上の4、5年生全員が海軍飛行予科練習生(予科練)に志願。そして、特攻隊として出撃した。
生徒を送り出す際、涙を流していた教師のことを、辻さんは今でもよく覚えている。
「いま死んでこそ、日本男児だ!」
教師は、命がけで出撃しようとする生徒らにそう叫んでいた。この教師が掲げていた教訓は「人生20年」だった。
「そんなことをおっしゃった先生は、八十いくつまで生きてましたよ」
45年に入ると、戦況は激しさを増した。空襲を想定し、校庭で避難訓練が行われた時のことだ。
教師らが「落ち着いて行動しろ。もし敵機が来たら、すぐに防空壕(ごう)に入りなさい」と呼び掛けているさなかに、警報もなしに敵機が襲ってきた。
辻さんら生徒は慌てて壕に逃げ込んだが、外を見ると木にしがみついて震えている人がいた。あの教師だった。
「僕らはちゃんと穴に入りましたよ。この時に思ったんです。ああ、大人はだめだなって」
その後も、大人への不信感は募った。
ある夜、自宅近くの畑に国民服を着た男らの姿があった。辻さんが近所の子どもたちと育てていたサツマイモを盗もうとしているところだった。
辻さんが止めようとしたら、「我々は飛行機を作っているんだぞ!」と怒鳴られた。
イモに群がる大人を見て、怒りより情けなさが込み上げた。
「俺らだって学校に通いながら、工場で飛行機作ってるんだけどな。大人は子どものことを何も分かっていない」
辻さんの中にあった大人への不信感は、戦争が終わる頃には「あきらめ」へと変わっていった。
◇
終戦から9年後の54年にNHKに入局し、番組制作や演出などを務めた後、脚本家に転身した辻さん。テレビアニメなどを中心に多くの脚本を担当したほか、ミステリー作家などとしても活躍を続け、2024年には名古屋市芸術賞特賞を受賞した。
「平和というのは、お互いをよく知ることから始まる」
辻さんが戦争から学び、どんな時も大切にしている持論だ。
現在93歳だが、ユーモラスな語り口調からは年齢を全く感じさせない。SNS(交流サイト)を使いこなし、自身のX(ツイッター)で発信を続ける。
投稿は、漫画や小説、アニメの鑑賞録が中心だ。ベテランだからこその辛口批評もある一方、良かった作品には「パクりたい」「ドライアイの僕が通読できた」などと裏表のないざっくばらんな書き込みが並ぶ。
「キングダム」や「薬屋のひとりごと」などの現代アニメをはじめ、分野を問わず鑑賞を欠かさないのは「感覚を研ぎ澄ましておくため」だという。
「大人と子どもの感覚の差は、簡単に地ならしできるものじゃない」
かつて経験した大人への不信感。その苦い記憶があるからこそ、辻さんは年齢や経験を重ねても、新旧問わずどんな作品にも敬意を持って向き合い、「知ること」を大切にする。
◇
戦後80年、世界では今も戦争が続く。
22年にロシアがウクライナに侵攻した際、辻さんはXにこんな書き込みをした。
「小さな体験ですが、どんな美辞麗句を並べた戦争でも、生活を破壊することを肝に銘じました」
戦争中、大人は都合の良い教訓を押し付け、国は甘言で国民を扇動した。だからこそ、辻さんは「反戦」という言葉にも注意を払う。
「『反戦』ではなく、『厭戦(えんせん)』『嫌戦』。戦いをやめさせるために戦うなんて矛盾もいいところ。誰かが『もうやだ、やーめた』って言えないとだめでしょう」
その言葉は、辻さん流の警鐘のように聞こえた。
Comments