
強烈な熱線と爆風に耐え、被爆当時の惨状を今に伝える原爆ドーム(広島市中区)。「悲惨な記憶を思い出す」と市民の間では一時、解体を求める声も上がったが、保存への流れを後押ししたのは被爆から15年後、急性白血病のため16歳で亡くなった少女が残した言葉だった。
「あのいたいたしい産業奨励館だけが……」
少女は楮山(かじやま)ヒロ子さん(1944~60年)。1歳の時、爆心地から約1・2キロの広島市平塚町(現中区)の自宅で被爆した。けがもなく元気に成長したが、16歳の時に急性白血病を発症し、亡くなった。楮山さんは亡くなる約8カ月前の59年8月6日、日記にこう記している。
<あのいたいたしい産業奨励館(現原爆ドーム)だけがいつまでも、おそる(べき)げん爆を世にうったえてくれるだろうか>
楮山さんの初七日の法要に参列した故河本一郎さんは楮山さんの母親から日記を手渡され、この言葉に目が留まった。河本さんは、被爆から10年後の55年に12歳で亡くなった佐々木禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」建立のための募金を全国に呼びかけ、後に広島市内の小中高生らでつくる「広島折鶴の会」の世話人も務めた。
記憶が忘れ去られないように
当時、広島市民の間では「ドームを見るたびに『あの日』…
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