米軍による長崎への原爆投下から間もなく80年。1945年8月9日の原爆投下当日から年末までの死者は約7万人とされるが、行政資料が失われ、一家全滅したケースもあり推計の域を出ない。長崎市の93歳の男性は、入学4カ月で原爆の犠牲になった母校の同級生に思いをはせ、この夏も慰霊祭の準備を進めている。
「被爆の数日前まで一緒に遊んだ同級生もいる。今でも名前を見ると顔が浮かんでくる」。旧制長崎県立瓊浦(けいほ)中学1年の時に13歳で被爆した丸田和男さん(93)=長崎市=はそう語り、涙ぐんだ。手元には1年生299人の名前と、即死、(それ以外の)死など被爆状況を記録した名簿がある。うち114人は長崎原爆で犠牲に。名簿は被爆後間もない時期に担任教師が作り、丸田さんが大切に保管してきた。
8月9日は朝から英語の期末試験を終え、午前10時50分ごろ帰宅。上半身裸になり汗を拭いている時、米爆撃機B29の音が聞こえた後、青白い光を受けた。
爆心地の南約1・3キロ。真っ暗なトンネルの中を体ごとガーッと持っていかれる感じだった。気が付くと家の下敷きになっており、外から「火事が起きた」と声が聞こえた。必死にもがいて抜け出すと、背中にガラスが刺さり、血だらけだった。
「お母さんはだめだった」
「お母さんはだめだった」。近所の人から、隣家の玄関先で話をしていた母松枝さんが即死したと知らされた。2年前に病死した父に続き、母も奪われた。
避難した自宅の裏山では黒い、強い雨を浴びた。夜に下痢が始まり、朝になり血便だと分かった。偶然会った叔父に助けられ、8月11日に列車で約20キロ離れた諫早に避難。国民学校の救護所で診察した医師は急性放射線障害のことを知らずに血便を見て「赤痢だ」と言った。病院で療養後、11月に復学した。
爆心地の南約800メートルにあった瓊浦中は校舎が壊滅。全校生徒約1200人のうち、丸田さんの同級生や、軍需工場に動員されていた上級生らを含め約400人が犠牲になった。
手書きの宛名に思い込め
戦後、高校を卒業して警察官となり、退職した約30年前に被爆体験の証言者となった。修学旅行生などを前に、93歳になった今年も既に20回以上、講話をした。「入学してわずか4カ月で同級生を亡くしたことが体験を語る原点」。長崎平和推進協会写真資料調査部会の一員として、原爆の焼け野原を記録した写真の検証作業も続ける。
2011年に解散した瓊浦中同窓会の後継団体「瓊中翠巒(すいらん)会」の世話人として、毎年8月9日に慰霊祭を開くが、卒業生や遺族は高齢化し、参列者はわずかになった。
「同級生はどれだけ無念だったろう。彼らのことを忘れてはならない。伝え続けなくてはいけない」。今年も慰霊祭の案内はがき一枚一枚に宛名を手書きした。【添谷尚希】
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