「戦争が人から優しさ奪った」 ムッちゃん息絶えた防空壕 大分

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出征を2度経験した彫刻家・村上炳人(へいじん)氏が制作したムッちゃん像。物言わぬ少女の目は寂しげだ=大分市で2025年5月22日、上入来尚撮影
出征を2度経験した彫刻家・村上炳人(へいじん)氏が制作したムッちゃん像。物言わぬ少女の目は寂しげだ=大分市で2025年5月22日、上入来尚撮影

 大分市のJR日豊線・牧駅近くの平和市民公園にブロンズ像がある。素足で台座に腰掛ける三つ編みの少女は、小学6年生のムッちゃんだ。

 本名は分からない。父が出征中の1945(昭和20)年、横浜の空襲で家が焼け、母や弟が行方不明になった。その後、おばのいた大分市に疎開。間もなく肺を病み、海岸に近い防空壕(ごう)の奥で独り横になっていたという。そして終戦直後、ひっそりと亡くなっているのが見つかった。

 当時6歳で疎開していた京都府木津川市の中尾町子さん(86)も、同じ防空壕にいた。自身が母になり、77年に戦時中の体験記を毎日新聞に寄せた。そこにはムッちゃんの悲話がつづられ、戦争の犠牲になった子供の話が共感を呼んだ。その後、多くの寄付が集まり、83年に不戦の象徴とすべく像が建てられた。

 ロウソクがともる防空壕で、ムッちゃんと言葉を交わした空襲の夜を忘れない。「私がムッちゃんから竹筒の水をもらうのを、肺病だからと大人は許さなかった。戦争が人から優しさや人間性を奪い、彼女は放置されてしまった」【上入来尚】

ムッちゃんとの思い出を話す中尾町子さん=京都市上京区で2025年7月31日、山崎一輝撮影
ムッちゃんとの思い出を話す中尾町子さん=京都市上京区で2025年7月31日、山崎一輝撮影

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 以下、1977年に毎日新聞に掲載された記事

 京都市山科区、主婦、中尾町子さん(三八)が疎開先の大分市の防空ごうでムッちゃんに会ったのは、二十年春。ごうは、西大分駅近くの海岸に迫った山はだに掘られていて、トンネルが枝状に分かれていた。空襲が激しくなるにつれ当時六歳の中尾さんら子供は奥へ奥へ避難するようになった。その一番奥の一角にムシロ二枚、その上に薄いふとんを敷いてムッちゃんはいつも寝ていた。まくら元に水の入った竹筒とロウソクが二、三本。「あの子は肺結核やから近寄ってはいけない」と中尾さんは母から言われた。

 しかし、後から後から入る人に押されムッちゃんのまくら元に座る回数がふえ、いつしか二人は手を握りあい爆音の恐怖に耐えた。

 ムッちゃんは、空襲警報を喜ぶふうだった。一人ぽっちの暗い穴に、大勢の人が避難してくるからだ。ムッちゃんは当時、小学六年、十二歳。横浜で空襲に遭い、母と弟が行方不明になって大分のおばの家にあずけられた。「おばさんちの赤ちゃんに病気がうつるといけないから私はここにいるの」と小声で話した。長い髪を三つ編みにし、やせて目ばかり大きく見えた。

 大空襲で暗やみが夕焼けのように赤く燃えた夜のこと。こわさでのどがカラカラの中尾さんは「お水ちょうだい」と母にねだった。「夜が明けるまでがまんしなさい」と母。するとムッちゃんが「私のお水をあげる」と竹筒を差し出した。そばの女の人が言った。「あんた、肺病やないの。気易う言わんとき」。母は短く「がまんしなさい」と繰り返した。ムッちゃんの表情はよく見えなかった。中尾さんは母に聞こえぬよう「ちょうだい」とムッちゃんにささやいた。水はなまぬるく臭いにおいがして、一口しか飲めなかった。「また、ほしくなったら言ってね」とムッちゃんは言った。

 その数日後に終戦。中尾さんたちはごうに入る必要もなくなった。そして四、五日たってムッちゃんの死を知った。「戦争が終わっても、横穴の中に放っておいたらしい。水の竹筒握って餓死したそうや」と大人たちはささやきあった。「私は母が、ムッちゃんのために初めて涙を流すのを見た」と中尾さんは毎日新聞に寄せた手記に書いている。

 そして「この悲惨な戦争の実感を、お菓子を食べながらテレビの戦争映画を見ている今の子供たちに、どんな言葉で語ればよいのでしょう」と中尾さんは結んでいる。(1977年8月13日大阪本社発行夕刊から)

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