
「私の人生返せ」
娘からの何気ない一言に、90歳を過ぎた母はそう声を荒らげた。
広島で被爆し、2024年3月に95歳で亡くなるまで、被爆者であることを隠し続けた。
娘は6日、初めて被爆2世として広島の平和記念式典に参加した。そこには、複雑な思いがあった。

京都市の加口(かぐち)敦子さん(69)の母、嘉子(よしこ)さんは80年前の夏、広島市の親戚の家で暮らしながら軍需工場で働いていた。当時、17歳だった。
8月6日午前8時過ぎ、岡山から広島に遊びに来ていた義理の姉を見送るため、広島電鉄前の停留場にいた。そこで被爆した。
電車に乗り込む途中だった義理の姉は、体に大やけどを負った。母はその陰に隠れていたせいか、左眉を切る軽傷で済んだ。
終戦後、実姉を頼りに大阪へ。看護師を目指して看護学校に3年間通い、資格を取得した。
敦子さんは、母が看護師を目指した理由を記者(木谷)に話してくれた。
「本当は洋裁学校に行きたかったようなんです。ただ、看護師になることで、被爆による自身の体調の変化にいち早く気づけるかもしれないと、看護の道を選んだんです」
「人の命を救うためだけではなく、自分の命を自分で守るためなんです」
「結婚を諦めていた」

母はその後、父に見初められ結婚した。父と出会う前には、他の相手とお見合いをすることすらかなわなかった。被爆者だったからだ。
結婚後しばらくして、京都に移った。
後になって、敦子さんに「実は結婚を諦めていた」と話していた。
そんなこともあって、被爆者であることを家族や親戚以外に、誰一人として打ち明けなかった。
あの日の出来事をぽつりぽつりと話すようになったのは、敦子さんが中学生くらいになった頃だった。
「電停で原爆におうた」
「船のところで(傷を)縫ってもらった」
「トラックに乗せてもらった」
「義理の姉がしばらく寝込んでいた」
何度聞いても、これ以上、話は続かなかった。
ある時、敦子さんは広島の地図を母の前で広げた。
「どこで何があったのか、地図で説明してくれへん?」
だが、母から静かながら鋭い声が返ってきた。
「もういい」
これ以上、話は続かなかった。敦子さんはそれから、母に原爆について尋ねることをやめた。
母は差別を恐れたのだろうか。被爆者であることを周囲に気付かれないよう、気を使って生活していた。
80代になると、デイサービスに通い始めた。被爆者健康手帳を持っていたので無料だが、「誰かにばれるかもしらへんから」と利用代を払い続けた。
「私と広島に行ってくれへん?」
そんな母が88歳の時、転機が訪れる。16年の8月だった。
現職の米国の大統領としてオバマ氏が同年5月、初めて広島を訪問した。母はデイサービスから帰宅して早々に、ぼそっとつぶやいた。
「誰もオバマさんのことを関心持ってへんみたい」

しばらく考え込み、敦子さんに「私と広島に行ってくれへん?」と声を掛けた。
この年の10月、敦子さんは母と2人で広島へ向かった。
タクシーに乗りこむと、母が冗舌になった。
「千田小ってここから近い?」
「ここの電停で被爆した」
「あそこに人が歩いてはった」
広島市の地図を見せただけでも怒った母の姿は、そこにはなかった。当時を振り返るように話し、敦子さんは戸惑いを隠せなかった。
母が92歳の時、驚くことが起きた。
自宅の台所で母とたわいのない雑談をしていた。「お母さん、長生きしはったから、原爆、関係なかったね」
ところが、母からは怒るように大声の返事が返ってきた。
「私の人生返せ」

穏やかな性格の母。苦労したとはいえ「娘と一緒に暮らせて幸せだろう」と思っていただけに、衝撃を受けた。
母は24年3月、家族に見守られながら自宅で息を引き取った。95歳だった。
今春、敦子さんのもとに8月6日の平和記念式典の案内が届いた。
「母はあんなに隠していたのに、その娘が出席していいのだろうか」
迷いはあったが、参加を決意した。広島を訪れるのは、母と2人で訪れて以来9年ぶりだ。
「母も本当に被爆者であることを隠したかったのなら、死ぬまで黙っていればよかったはず。私と一緒に広島に行って説明してくれた時、バトンを渡されたのかな」
敦子さんは「式典に参加し、2世としての自覚を持てた。これから2世としての役割を果たしていきたい」と話した。【木谷郁佳】
Comments