画家の丸木位里(いり)、俊(とし)夫妻が描いた「原爆の図」を所蔵する「原爆の図丸木美術館」(埼玉県東松山市)が保管していた夫妻の遺品から、未確認だった大量の資料が見つかった。資料は、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が1956年に発足する前、被爆者運動の先駆けといえる時代の空気を伝えている。
今回、確認された資料は、50年代始めに広島で被爆者の組織化が始まった頃の報告や文化人らとやり取りした封書とはがき計約330通や、「原爆の図」を各地で巡回展示した際の1000枚以上のチラシなど。
美術館内にある夫妻のアトリエ兼書斎で今春、書簡や書類を詰め込んだかばんが発見され、美術館の岡村幸宣学芸員らが解析を進めていた。
被爆者団体は、広島県被団協に先立って「原爆被害者の会」が52年8月に結成された。資料の中には、その機関紙「ヒロシマ通信」第1号が含まれていた。
発行日は52年12月20日。総会の発言録や会計内容、海外派遣の検討などを報告している。現物は、ほぼ残っていないとされる。
チラシは50年に始まった「原爆の図」の全国巡回展で、現地の主催者が作った。
東京・吉祥寺の展示会(52年)では、賛同者に武者小路実篤の名がある。
開催地は、全国に及んでいた。被爆地の広島市と長崎市、原爆投下目標だった福岡県小倉市(現北九州市)、朝鮮戦争下で米軍の輸送基地となった東京都立川市などで、賛同の広がりを感じさせる。
手紙やはがきは、宛先に記された夫妻の住所が50年代初めのものだった。
差出人は「にんげんをかえせ」で知られる原爆詩人の峠三吉、絵本作家として有名になる前のいわさきちひろ、「被害者の会」を設立した広島大生の川手健ら。夫妻の人脈がうかがえる。
岡村さんは、こう指摘する。
「54年に米国による水爆実験で日本の漁船が死の灰を浴びた『ビキニ事件』を経て日本被団協が結成される前夜と言える時代に、『原爆の図』が平和運動と密接に関わっていたことが改めて分かる。作品の『解像度』が上がる資料でもある」
確認された資料の一部は27日、はつかいち美術ギャラリー(広島県廿日市市)の平和美術展で「原爆の図」2点(第1部と第4部)を含む絵画作品と合わせて展示が始まった。8月17日まで。【宇城昇】
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