遺骨も戻らなかった父のスケッチ手に 91歳、初めての平和式典へ

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原爆で亡くなった父熊田亮造さんの遺品のガラス絵を手に孫の沙梨さん(右から2人目)やひ孫の太凰さん(左端)、沙弥さん(右端)と話す小松宏生さん=広島市中区で2025年8月6日午前7時29分、大西岳彦撮影
原爆で亡くなった父熊田亮造さんの遺品のガラス絵を手に孫の沙梨さん(右から2人目)やひ孫の太凰さん(左端)、沙弥さん(右端)と話す小松宏生さん=広島市中区で2025年8月6日午前7時29分、大西岳彦撮影

 広島は6日、鎮魂の祈りに包まれた。米軍が投下した原子爆弾は街を焼き尽くし、大勢の命を奪い、生き残った人々も心身の傷に苦しみ続けている。80年が経過してもなお、核兵器廃絶は実現せず、使用の危険性は高まるばかり。核なき世界に向けて志を同じくする人々がこの日、それぞれの場所で決意を新たにした。【藤木俊治、武市智菜実】

 草花をモチーフにしたスケッチ画、寄り添う男女をガラス板に写したガラス絵――。優しいタッチが、描き手の人柄を思わせる。栃木県の遺族代表、小松宏生(ひろみ)さん(91)=那須烏山市=は画家だった父が残した作品を携え、初めて広島平和記念式典に参列した。平和への願いをつなごうと、孫と2人のひ孫も一緒だ。

 「お父ちゃん、80年たって、やっと来たよ」

 1945年8月6日、広島上空で原爆がさく裂した時、小松さんの父熊田亮造さんは、広島市中心部にあった日本発送電中国支店(現中国電力)に出社していた。画家や彫刻家として創作活動にいそしむ傍ら、家計を支えるために会社勤めをしていた。

 支店は爆心地から約900メートルの元安川沿いにあり、多くの社員が犠牲になった。亮造さんも勤務中に被爆したとみられるが、家族がいくら捜しても…

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