
太平洋戦争末期、1945年に入ってからの航空戦は、少年たちの戦いだったと言っても過言ではなかった。土浦海軍航空隊(茨城県)に飛行予科練習生として入隊した同郷の同期6人は特別攻撃隊の一員として命を落とした。まぶたの裏に浮かぶ彼らは少年のままだ。天上で再会することがあるとしたら、この老人が戦友だと、彼らは気付いてくれるだろうか――。
日常だった死
藤本光男さん(98)は旧制秋田県立能代中学5年の途中、43年6月に土浦海軍航空隊に入隊した。子どものころから手製のグライダーで遊んだ飛行機好き。当然のように志した飛行機乗りだったが、予科の土浦、本科の鈴鹿海軍航空隊(三重県)と1年8カ月余り、厳しいしごきを受けた。「バッターと呼ばれる軍人精神注入棒で尻をたたかれた。2種類あって、カシのバッターが細くて硬くて痛かった」という。
45年2月、作戦を遂行する実施部隊の置かれた明治基地(愛知県)に配属され、夜間戦闘機「月光」の操縦席の後ろに、偵察員として乗り込んだ。6月に移った藤枝基地(静岡県)では速度や突破力に優れるため夜間戦闘機に改装された艦上爆撃機「彗星(すいせい)」に偵察員として搭乗し、左耳で基地からのモールス信号を受け、右耳でパイロットの声を聞いた。基地に後輩は一人もいない。最若手の搭乗員だった。
所属した第131航空隊は「芙蓉(ふよう)部隊」と呼ばれた。隊長の美濃部正少佐が特攻に異を唱え、夜間銃爆撃の有効性を認めさせた夜間戦闘部隊である。沖縄攻防戦に岩川基地(鹿児島県)から出撃し、藤枝は錬成のための基地だった。夜間の作戦に慣れるため、「猫日課」と称して昼夜を逆転させ、黎明(れいめい)(夜明け)、薄暮(夕暮れ)、夜間の訓練を繰り返した。
芙蓉部隊は特攻機を一機も出さなかった部隊として知られているが、「いずれ自分にも特攻命令が下る」と思っていた。それも不思議ではない。連日のように、基地にいる誰かの同期生が特攻死したと耳に入ってきた。
秋田県出身の予科練同期生47人のうち、戦死者は6人を数える。全員が特攻死だ。本籍が…
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