今年こそ、広島で「原爆の日」を迎えたかった。腰を痛めて一時は寝たきりとなったが、リハビリを重ねて乗り越えた。亡くなった父と兄、姉の3人を心から悼みたかったからだ。
山口県山陽小野田市の木下俊夫さん(93)は、県の遺族代表として平和記念式典に参列した。全国の参列遺族の中で最高齢。「あの日は今でも脳裏に焼き付いている。家族を失い、本当につらい一生だった」
80年前、木下さんは広島市の中学1年生だった。友人と2人で動員先の軍需工場に向かう途中、強烈な熱風に襲われた。
意識を失って目を覚ますと、川の土手にいた。左右のふくらはぎは大やけどを負っていた。工場は燃えてなくなり、たどり着いた自宅は壊れていた。
母と、生まれて間もない弟は防空壕(ごう)に逃げ込んで無事だったが、父清一さんと兄寛さん、姉ミチエさんの行方が分からない。
翌日、3人の名前を呼びながら街を歩いた。すると、1人がふらっと立ち上がるのが見えた。
「お母ちゃん」。兄だった。「寒いんじゃ」と訴えてきた。何か体に掛けてあげられるものはないかと急いで自宅に帰ったが、戻ってみると兄は息を引き取っていた。
数日後、父の遺骨を市役所から受け取った。「本当に父かどうかは分からない」と木下さんは言う。姉は広島の沖合にある似島(にのしま)にいるらしいと人づてに聞き、船で島に行って紙袋に入った遺骨を受け取った。
木下さんは戦後、両親の実家があった山口県周南市に身を寄せた。中学を卒業し、建築士の資格を取って建築会社に就職した。被爆の影響からか、体が突然だるくなることが何度もあったが、何とか気力を保ってきた。
当時を思い出すことが嫌だった。家族を含めて誰にも被爆体験を話さなかった。ただ、ずっと心の中で大切にしてきた思いがある。「もう二度と同じ過ちを繰り返してほしくない」
60代に入り、地元の小学生に自らの体験を語るようになった。子供たちは「初めて聞く話に衝撃を受けた」と驚き、繰り返し質問をしてくれた。関心を持ってくれるのが、心の支えだった。
定年退職した後は毎年欠かさず、平和記念式典に参列してきた。自分が悪さをすれば叱ってくれた兄や父、怒られる自分をかばう姉――。祈りをささげると、80年前の3人が心の中にありありと浮かんでくる。
「あの時は分からなかったが、今考えると3人とも私を大切に思ってくれていたんだ」。いつも涙が流れてくる。
2024年初め、階段で転んで腰を打ってしまい、一時は寝たきりの生活となった。24年の式典は参列できなかった。
「今年は参加したい」。体調が徐々に元に戻ってきた3月ごろから体を鍛えた。早朝にはラジオ体操に出かけ、自宅近くでの散歩を繰り返してきた。
2年ぶりに訪れた6日の式典では、家族の遺影を胸に抱えた。3人から「ちゃんと元気にしているか」と声を掛けてもらったような気持ちになった。
式典後、木下さんは願った。「たった1発の原爆が多くの人の命を奪った。その過去があるのに今も世界で戦争が続いている。平和な世の中になることを望んでいます」【井村陸】
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