「黙っているしかなかった」 両親のふるさと・沖縄で深めた孤独

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父、備瀬知祐さんの名前が刻まれた平和の礎に花を手向ける大城智子さん。少し離れた場所に母幸子さんの名前も刻まれている=沖縄県糸満市で2025年6月25日、喜屋武真之介撮影
父、備瀬知祐さんの名前が刻まれた平和の礎に花を手向ける大城智子さん。少し離れた場所に母幸子さんの名前も刻まれている=沖縄県糸満市で2025年6月25日、喜屋武真之介撮影

 「黙っているしかなかった」。淡々と語った言葉に、かつての深い孤独がにじんでいた。

 長崎で被爆した大城智子さん(84)=沖縄県浦添市=は、終戦翌年から沖縄で暮らす。1972年まで米国の統治下で、被爆者援護も本土より遅れた地。長い間、自分の境遇を周囲に語らなかった。それを変えたのは、島の被爆者たちとのつながりだった。

 那覇市出身の父備瀬知祐(びせちゆう)さん(2004年に93歳で死去)と母幸子さん(06年に95歳で死去)のもと、大阪で生まれた。4歳だった45年春、父方の祖母と同居するため長崎市本原町に引っ越し、1歳の弟を含む5人で暮らした。

 8月9日の午前11時2分。爆心地から約1・3キロの自宅で祖母と弟と遊んでいると、大城さんの頭の上に天井が崩れ落ちてきた。

 「智ちゃん、智ちゃん」。友人宅から自宅に戻ってきた母の声が聞こえ、がれきの中から必死に「助けて」と叫んだ。母はやけどを負った大城さんを救出すると、胸に抱いて救護所を目指した。母の手記によれば、祖母は爆風に吹き飛ばされ救護のかいなく死亡。祖母に背負われていた弟は土壁に挟まれ即死した。

 46年に沖縄へ。両親はげた作りや溶接工をして生計を立てた。被爆者の中には、原爆を投下した米軍の基地関係で働く人も多かった。

 生きるための選択は被爆者の口を重くした…

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